明けましておめでとうございます。本年もふるさとメール、「今、南アルプスが面白い」をよろしくお願いいたします。
先月は山梨県および南アルプス市におけるヤギの足跡を記録を手がかりにひもときました。今月は多くの人々に残っているヤギの記憶から、ヤギとともにくらした風景を描いてみたいと思います。
1.昭和初期~昭和20年まで
築山地区 市川さん
まず太平洋戦争以前(以後戦前)の様子を見てみましょう。築山地区の市川家では昭和の初めから牡、牝一頭ずつヤギを飼っていました。朝起きると小学校に登校する前に、田んぼの畦や山裾まで行って餌となる草を刈るのが市川さんの日課でした。この頃、近所では牛や馬も飼っていたので草は貴重な飼料で、草刈りはまるで競争のようだったとか。他の人の田んぼの畦草を刈り取っていたら「そこはおらんとこじゃないか!」と叱られたこともあるそうです。ヤギを飼うには毎日新しい草が必要となりますが、除草が問題となっている現代から考えると、環境をうまく利用した循環した生活であったことは確かです。
朝の乳しぼりは母親の仕事で、市川さんは小学校4・5年生頃から夕方の乳しぼりを任されました。鍋にしぼって、それをサラシで濾し、殺菌のため沸かして飲みました。さてその味はどうだったのでしょう。市川さんの場合は、においがあって、あまり好きではなかったそうです。
落合地区 新津さん
落合地区の新津家では昭和10年ごろ牝を1頭を飼い始めました。朝の餌となる畑の草刈りは父親の仕事で、乳しぼりは小学校3年生ぐらいから任されました。今から考えると子どもにとって乳しぼりは難しそうですが、慣れればすぐにできたそうです。しぼった乳は鍋に入れます。1回で4~5合ぐらいの量があり、やはりサラシで漉して違う鍋に入れ換え、沸かして温かいうちに飲みました。ポイントはこの時に塩を少し入れること。そうすると乳の濃さがより引き立ったそうです。乳の味は餌によって変わり、青い草ばかりだと青くさくなり、ワラやこぬかを与えるとおいしくなったのよと話されました。クセはあったけれど平気で毎日飲んでいたそうです。そういえば南アルプス市出身の俳人、福田甲子雄さんも「山羊乳に青草の香のしみてをり」と詠んでいます。太平洋戦争末期の昭和19年頃、ヤギが弱ると専門の業者が買い取りに来て、ヤギは新津家から一時姿を消しました。
2.昭和20年代:太平洋戦争後(以後戦後)
太平洋戦争直後は食料が不足したため、前号で書いたようにヤギの飼育が全国的にもすすめられました。ヤギが最も普及した時代です。
飯野地区 飯野さん
昭和16年頃、牝を1頭飼い始めました。飯野さんは奉公先から徴兵検査のため昭和18年に飯野にもどり、その時実家で飼い始めたヤギに出会いました。その後飯野家では、太平洋戦争を経て昭和30年代中頃までヤギを飼い続けたそうです。他の方と同様、朝餌となる草刈りをして、乳をしぼり、沸かして飲む流れです。飯野さんは「ヤギ乳は大好きだったなあ」と懐かしそうに話されました。昭和26年に生まれた息子さんもヤギ乳を飲んで育ち、小学校に入るとヤギの餌となる草刈りと乳しぼりが朝の仕事となりました。
飯野さんの記憶で注目されるのはヤギの餌の変化です。終戦直後の飯野では桑畑が広がっていて、田んぼの畦草以外の畑の雑草も餌とすることができました。しかし昭和30年代に入ると地域の農業が養蚕から果樹へと次第に変化し、果樹畑では消毒が行われるようになりました。必然的に安全な餌は水田の畦草に限られ、その水田も次第に果樹畑と変えられていったため餌が不足し、とうとうヤギの飼育を諦めることにしたそうです。
3.昭和30年代以降
日本経済が高度成長期に入り、社会が大きく変わっていく時代です。山梨県の山羊飼育頭数も減少の一途を辿りました。
落合地区 新津さん
前述した新津さんは嫁ぎ先でも昭和32・33年ごろ再びヤギを飼うことになりました。それは昭和33年に生まれた長女にヤギ乳を飲ませたかったからです。その後長男にも恵まれ、子どもたちは山羊乳を飲んで育ちました。毎朝の草刈りと餌やり、乳搾りは母親である新津さんの役割でした。昭和42年頃にヤギが弱くなって知人の人に引き取られ、新津家でのヤギ飼育は終わります。農業が養蚕から果樹栽培へと切り替わりつつあり、その忙しさで毎日の餌やりや乳搾りができなくなったことが理由でした。昭和40年代初め頃にはまだ近所でヤギ乳をわけてくれる人がいて、ヤギ乳は飲み続けられました。ヤギ乳で育った娘さんは現在でもあの味が懐かしいと話されています。
有野地区 河西さん
有野の河西家では昭和40年ごろから牝を1頭飼いはじめました。子ヤギの時はかわいくて、河西さんが徳島堰沿いを散歩させたそうです。やはり朝はまず乳しぼりから始まります。これは子どもの仕事で、小学校4年生ぐらいから高校卒業まで河西さんの毎朝の日課でした。一升瓶に直接乳をしぼり、それをサラシで漉して、アルマイトの鍋に入れます。その乳を沸かして毎朝飲んでいました。夕方も同じです。冬には乳量が減るので、12月頃で乳しぼりは一度おしまいになります。有野から飯野まで種付けに行ったことを覚えていて、春になると子ヤギが生まれ、再び乳しぼりが始まりました。
河西さんは子どもの頃からカメラが好きで、中学校の修学旅行に際してカメラを買ってもらいました。そのカメラでヤギを撮影したのが次の3枚の写真です。戦前戦後はカメラを持っている人など稀で、一般的に普及し始めた40年代にはヤギの飼育が減少し、さらに日常風景を写す人がほとんどいなかったため、市内でもヤギを写した写真はほとんど残されていません。その中でとても貴重な写真です。
【写真】有野地区 河西さん撮影
4.ヤギ乳レシピ
ヤギの思い出を多くの方からお聞きしましたが、ほとんどの方はヤギ乳は飲むだけで、他の料理に使うことはなかったと記憶されています。源地区愛育会史料の昭和22年度山羊計画書の中で、「山羊の利用化 チーズやバター等への加工研究」が掲げられていますが、乳製品として完成するには至らず、ほとんどの人は作ったことも食べたこともなかったようです。一方で、わずかながらヤギ乳を各家庭で工夫して料理に活用していました。そのレシピをご紹介します。
(1)ヤギ乳パン
先月号で昭和25年の愛育会史料でも「山羊乳は一般にパンを作る場合に使用」とあり、沸かして飲む以外にパンの材料として利用されたことがわかります。ではどうやってパンを焼いていたのでしょうか。
まず電気パン焼き器があげられます。前述した新津さんは、落合に疎開してきた東京の建具屋さんが木の板と鉄板で電熱のパン焼き器を作ってくれて、山羊乳入りのパンを食べた記憶があるそうです。このパン焼き器は電流をパン種に直接流し焼き上げるもので、戦後、配給された食料粉で作ったパンを焼く道具として普及、流行しました。
別のパン焼き器をみてみましょう。戦後に製造が禁止された戦闘機の素材ジュラルミンを加工して作られたのが、円形のパン焼き器です。器内部は円筒形になっていて内部にも熱が伝わる構造です。荊沢地区の仙洞田さんはこれを模した鉄製のパン焼き器を持っていて、七輪で温めて焼かれたヤギ乳入りのパンを食べたことを覚えています。見せていただいたパン焼き器の表には「文化パンヤキ 特製」とあり、その内部は真っ黒に焦げていて、何度も使われたことがうかがえました。
【写真】荊沢地区仙洞田さんとパン焼き器
(2)ヤギ乳入りうす焼き
ヤギ乳は飲むだけという人が多い中、山梨県の郷土料理であるうす焼きに入れた記憶を持つ人は何人もいました。小麦粉を水で練って、各地域各家庭それぞれの具材を入れて焼いたもので、生地にヤギ乳が混ぜられました。
(3)ヤギ乳のほうとう
当時の主食の一つほうとうにヤギ乳を入れて作りました。
(4)ヤギ乳味噌汁
味噌汁にヤギ乳を入れて作ります。味噌とヤギ乳の相性はよかったようです。現代でも牛乳にも味噌を入れるスープレシピがありますよね。
(5)ヤギ乳カルピス風
有野の河西さんは雑誌の付録だったか、ヤギ乳にクエン酸と砂糖を混ぜて、カルピスに似た味の飲み物を作ったことがあるそうです。
(6)ヤギ乳プリン
日本女子大学家政学科で栄養学も学んだ矢崎きみよさんが作ったことをお孫さんが覚えていました。当時プリンはハイカラな食べ物で矢崎きみよさんならではのレシピだったのでしょう。
(7)ヤギ乳ごはん
早川町出身の佐野さんはごはんに味噌を少し加え、ヤギ乳をかけて食べたそうです。懐かしい味で今でもよく覚えているそうです。
5.ヤギの名前
今回調査した方々の中で、ヤギに特別な名前を付けていた人は一人もいませんでした。名前はあるものと思い込んでいましたが、乳を利用する「家畜」として飼っていたことと、ほとんどが一頭飼いのため、みなさん「ヤギ」と呼んでいたようです。
6.ヤギとともに
現在でも少ないながら南アルプス市内でヤギの姿を見ることができます。文化財課とともに史跡のヤギによる除草に取り組んでいるNPO南アルプスファームフィールドトリップでは、サクランボ観光でもヤギを活用し、訪れた子どもたちに人気だそうです。また西野地区の保坂家では、昔のヤギが懐かしくペットとして飼い始め、近所の人々からも可愛がられているそうです。その他、有野地区や江原地区でも再びヤギを飼う家がでてきました。また、ほとんど口にすることがなくなったヤギ乳は、牛乳と比べてアレルギーの元となる物質が少なく、タウリンも豊富で、栄養面から再評価されています。山梨県内ではヤギを育て、ヤギ乳のヨーグルトを製造販売する全国的にもめずらしい会社もあります。一度私たちのくらしから姿を消したヤギですが、人と新しい関係を結びながら少しずつ日常の風景にとけ込みはじめたのかもしれません。
【南アルプス市教育委員会文化財課】