昔からの街道筋や、城下町によく見られる道の形に「かねんて(曲尺手(かねのて)、地域によっては鍵の手(かぎのて)とも)」があります。これは、道をつくる際、意図的に曲尺(かねじゃく)のように、直角にクランク状に曲げられた道で、城下町においては、直進的に敵が侵入することを抑制する工夫などのため設けられたと考えられています。街道筋においては、宿場の入り口にはよく見られ、宿場に入る人を吟味するためともいわれますが、実際にはこれを含め、ここから〇〇宿です、ここまでが〇〇宿です、といった宿の境界を画する機能と考えられています。
山梨県内で、「かねんて」といえば、甲府城下町に東側からアクセスする旧甲州街道(現国道411号 城東通り)のJR身延線「金手(かねんて)」駅付近と善光寺駅付近のふたつの「かねんて」がよく知られていますが、実は「かねんて」は、現在の南アルプス市内にもいくつか存在します。
【図1】甲府城下町のかねんて(国土地理院発行1/2500「甲府」
南アルプス市の市街地を南北に貫く県道42号 韮崎南アルプス富士川線(※)は、かつて駿河(静岡県)と信濃(長野県)を結ぶ街道として駿信往還(すんしんおうかん)、古くは信濃路、西郡路(にしごおりみち)、などと呼ばれ、信濃からの甲州街道を韮崎宿で分岐し、現南アルプス地内の荊沢(ばらざわ)宿を経て鰍沢宿へ至る街道で、鰍沢から先は、江戸初期に角倉了以(すみのくらりょうい)が開削した富士川舟運を介して駿河国岩淵、さらには江戸へと通じていました。
その駿信往還荊沢宿の上下、さらにはその北側にある下宮地村と小笠原村の境(神部神社付近)に設けられていたのが、南アルプス市内に残る「かねんて」です。
【図2】県道42号線(旧駿信往還)の位置」
まず、荊沢宿「上(かみ)のかねんて」。これは、現在も荊沢地区の北端、古市場地区との境目に明瞭に認めることができます。その西側には近年まで国の登録有形文化財である老舗和菓子店「松寿軒長崎」が営業していたほか、かつて北側には風呂屋、東側には食堂があり、地域の方の話では、その周辺は、夕方になると、どこからともなく人々が集い、憩う、とても賑やかな場所だそうです。
【図3】荊沢宿のかねんて
【図4】『荊沢村絵図(部分)』 上下の「かねんて」がみえる。山梨県教育委員会1986『河内路・西郡道』所収
【写真1】上のかねんて
【写真2】松寿軒長崎(国登録有形文化財)」
一方の「下(しも)のかねんて」は、明治7年(1874)の改修工事により解消され、直線化されてしまいましたが、地域の古老の伝聞によって、その位置を知ることができました。それは荊沢地区の南端、坪川に架かる大明橋の直前を東に折れ、すぐまた南に曲がった小径で、その道幅は2間(約3.6m)程。当時のままだと伝えられています。
【写真3】下のかねんて」
実はこの改修工事の際、「上のかねんて」、さらにそこから北に1600m程のところに設けられた下宮地村と小笠原村との境界にあった神部神社のところの「かねんて」も、同時に直線化される計画だったようですが、地域の反対により頓挫しています。地域の人々の「かねんて」への愛着でしょうか。現在、神部神社の「かねんて」にはショートカットが設けられ、線形がやや緩やかになってしまいましたが、クランク状の旧道は今も残されています。
【図5】神部神社のかねんて
【写真4】かねんて取り除き反対の願書(下宮地村) 『甲西町誌』所収
【写真5】神部神社のかねんて 左側の道が旧道」
現在のような自動車社会になると、見通しの悪い「かねんて」は事故や渋滞の原因ともなり嫌われがちですが、幸か不幸か中部横断道や甲西道路というバイパスができた現在、移動や物流のスピードはそちらに任せ、旧道は旧道の風情を残し、ゆっくりとその道の曲がりを感じ、今だ残る街道の風情を味わうことができれば素敵だとは思わないでしょうか。
※旧国道52号線、通称富士川街道。現在はそのバイパスで、中部横断道と平行して走る甲西道路の開通により、国土交通省管理の一般国道から山梨県管理の県道として平成28年(2016)に移管され、県道42号 韮崎南アルプス富士川線となった。
訪れてみたい方のために・・・・
神部神社のかねんて:南アルプス市下宮地563付近
上のかねんて:南アルプス市荊沢319付近
下のかねんて:南アルプス市荊沢989付近
【南アルプス市教育委員会文化財課】