今回からは数回にわたり、路傍の何気ない石造物や風景をとりあげ、知っている人は知っているけれど、知らなかった人には「これはそういうものだったのか!」と言ってもらえるような、そんなものを紹介していきたいと考えています。
まず第1回は、甲西地区の滝沢川沿いにぽつんと置かれた隧道(ずいどう)の銘板です=写真1・2。隧道とはトンネルのことで、銘板はその出入口の掲げられた隧道の名称板です。現在周囲を見渡してもトンネルは見当たりませんが、この銘板の存在が、かつて滝沢川が天井川だった時代、ここにその下を通るトンネルがあったことを教えてくれます。
【写真1】南湖隧道の銘板(なんことんねる/南湖隧道)
【写真2】田島隧道の碑と銘板
南アルプス市域は、西側に崩れやすく急峻(きゅうしゅん)な山々を持つことから、日本有数の土石流地帯といわれています。この急峻な山々から流れ下ってくる河川から身を守るために堤防を作るわけですが、水の流れが堤防により狭い河道の中に閉じ込められるようになると、山から運ばれた大量の砂礫は行き場を失い、河道内に堆積して川底を押し上げてしまいます。そこで、人々は川底が埋まるたびに堤防のかさ上げをすることになり、このような人々の絶え間ない川への働きかけの結果形成された天井川=図1が、市域には数多く存在しました。天井川については、2009年5月15日号でも触れていますが、滝沢川もそのひとつです=写真3。
【図1】天井川のでき方
【写真3】滝沢川(天井川だった頃、奥に見える本乗寺のお堂より上を川が流れていた)
天井川は、その名のとおり、屋根より高い位置に川が流れてしまうことで、一度氾濫すると洪水流が川に戻ることができず、昔からこの地域に大きな被害をもたらし、人々を苦しめてきました。また、生活面より河川が高い位置にあるので、生活排水や耕地からの排水も困難になるなど他にも様々な弊害がありました。川が高くなってしまったために、その川を人や車が越えることが大変なったってしまったことも、そのひとつといえます。
たとえば、南湖隧道ができる昭和のはじめ頃までは、そこは隣接するお寺の名前から「本乗寺の坂」と呼ばれ、大変な急坂として知られていました。当時貨物自動車さえ上りきれない時があったといわれ、本乗寺で遊んでいると、運送屋のおっちゃんが「おーい、おまんとう早くうしろを押してくりょう」といえば、荷車の後ろを押してやっては駄賃をもらったなどというエピソードも残されていいます。
そこで、近代(昭和)以降、川の下に隧道が掘られるようになり、人々は川の下を往来するようになったのです。南アルプス南部の甲西地区には、滝沢川に北から田島、和泉、南湖の3か所、坪川に1か所、かつてその隧道がありました=図2、写真4~6。現在は、地域の人々の悲願により、昭和46年(1971)から平成2年(1990)まで、実に二十年近くをかけた工事により河道の切り下げが行われ、天井川はその多くが解消され、隧道は姿を消していますが=写真7・8、かつて隧道のあった西南湖地区と田島地区には、その苦難の歴史を伝えるように、その出入口に掲げられた銘板が記念碑としてのこされているのです。なにげない街角に残されたモニュメントが、かつて天井川と戦った地域の歴史を伝えています。
【図2】滝沢川の隧道の位置(昭和34年)
【写真4】田島隧道(矢印は銘板)
【写真5】南湖隧道(矢印は銘板)
【写真6】和泉隧道(矢印は銘板)
【写真7】滝沢川(現在の様子)
【写真8】かつて南湖隧道のあった場所、現在は橋が架けられている(その前は、本乗寺の坂と呼ばれる急坂だった)
なお、和泉隧道の銘板も、現地にこそ残されていませんが、南アルプス市教育委員会に歴史を伝える資料として大切の保管されています=写真9。
【写真9】和泉隧道の銘板(南アルプス市蔵)
さらに余談ですが、田島隧道の記念碑のすぐ前に打たれた、赤い鋲(びょう)=写真10の矢印は、JR東海が打ったリニア中央新幹線の予定ルートのセンターラインを示す鋲です。滝沢川の下を通る田島隧道があった場所は、十数年後、今度はリニア中央新幹線がその上を越えていくことになりそうです。
【写真10】田島隧道の碑とリニアルートを示す鋲(矢印部分)
訪ねてみたい方のために・・・・
南湖隧道の銘板=南アルプス市西南湖4235-1付近(本乗寺北側)
田島隧道の記念碑・銘板=南アルプス市田島1251-1付近(田島地区公会堂の脇)
※滝沢川改修前の写真と隧道の写真=山梨県土木部ほか1990『改修工事記念誌 たきざわ川』
【南アルプス市教育委員会文化財課】