夏の青空が西から茜色に染まり始め、辺りがうっすらと夕闇に包まれる夕暮れ時、和紙に包まれた灯籠のあかりがぽつりぽつりと灯り始めました。その灯りとともに、飯野若宮神社に集う人々の声が、次第ににぎやかになってきました。
【写真】チョウマタギ 4区東北組
8月下旬に飯野地区若宮神社(別名若宮八幡神社)で行われる「お灯籠祭り」。祭りの起源を示す記録は残されていませんが、地元では神社が現在地へ移された慶長3年(1598年)から始められたと伝えられています。祭りを彩るのは若宮神社参道に並べられた「チョウマタギ」とそれに飾り付けられた灯籠です。
「チョウマタギ」とは灯籠をつるす門型の木組みで、参拝者がその敷居を「ちょいっとまたぐからこの名がつけられたのでは」とも地元では言われます。「七五三切(しめきり)」や提灯を雨から守っていることから「雨屋(あまや)」などとも呼ばれ、昔は竹で組み立てられていたとの証言もあります。
【写真】チョウマタギの敷居をちょいっとまたぐ
チョウマタギは飯野の旧集落である1区~6区までの地区で建てられていましたが、昭和63年に9区上宿端のチョウマタギが追加され、現在7基が参道に並べられています。随身門から鳥居までの境内参道上に1区上手(わで)村、2区中村組の順で置かれ、鳥居から南へのびる参道には、3区西北組、4区東北組、5区宮畑、6区郷地新居、9区上宿端の順でほぼ定間隔で設置されます。それぞれのチョウマタギには30個以上の灯籠が飾り付けられ、暗闇に浮かぶその明かりは、幻想的な世界へ人々を誘います。
【写真】1区上手村
【写真】2区中村
【写真】3区西北組
【写真】5区宮畑
【写真】6区郷地新居
【写真】9区上宿端
今回〇博(まるはく)の事業の一環としても、お灯籠祭りの取材と調査を行いました。その結果、地元では当たり前のことが、この祭りの大きな特徴であることがわかってきました。その一つは、前日に道祖神を祀る場所でチョウマタギを建て、道祖神祭りを行っている点です。現在行っていない地区もありますが、多くの地区はかつて前日に地区の道祖神場でチョウマタギを建ててお祭りを行い、一度解体してから、祭り当日に再度組み立てることが行われてきました。いわば道祖神祭りとお灯籠まつりがセットで行われているのです。調査に参加した山梨県立博物館の学芸員丸尾さんによれば、夏の火祭りと境界の祭りが神社の祭りと習合したのではないかと推測されています。それを裏付けるように、次のような古老の話が伝わっています。
【写真】1区上手村道祖神
「各集落の入口にある道祖神にチョウマタギを建て、疫病や悪霊が入ってくるのを防いだ、一種の火祭りだな。」
また市内では、須沢や六科、在家塚でもチョウマタギに灯篭を飾る祭りが行われていました。在家塚では8月お盆前後に公民館前広場にチョウマタギを設置して祭りを行う他に、10月の秋祭りに福島と中村の境、中村と紺屋の境に道をまたいでチョウマタギが置かれたそうです(『在家塚の民俗』)。
各地で行われていたお灯籠祭りも現在は姿を消し、飯野の若宮神社だけになりました。飯野でもかつて祭りを取り仕切っていた青年会の会員が少なくなったことから、昭和40年代半ばごろチョウマタギが建てられなくなり、お灯籠祭りは一時途絶えました。しかし、昭和54年、もう一度お灯籠祭りを復活したいとの有志の声に地域の人々が集い、企画や広告、ステージ設置、配線、司会などそれぞれの得意分野を生かすことで、祭りが復活したのです。
【写真】お灯籠祭り復活の様子を語る笹本満夫さん
灯籠のやわらかな灯りに照らされながら、子どもからお年寄りまでさまざまな人々がチョウマタギのトンネルを行き交います。周囲では酒を酌み交わす地元の人々の話し声や子供達の笑い声、盆踊りの音楽、フィナーレであがる花火への歓声が聞こえてきます。お灯籠祭りを楽しむこと、それが祭りを受け継ぐ原動力なのでしょう。何気ない祭りの風景は、この地に生きて人々の歴史や祈り、さまざまな物語を映し出すこの地ならではの大切な地域資源でもあるのです。
【南アルプス市教育委員会文化財課】