歴史を鑑みると、交易や布教、戦、開発、測量、治水、砂防、疎開、登山など、さまざまな目的でさまざまな人々が南アルプス市を訪れました。今回から数回にわたり南アルプス市を訪れた人々の足跡をご紹介します。
日本最初の測量図「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」※1は、教科書にも掲載されるほど有名な測量図です。この地図を作成した伊能忠敬は、甲斐国そして南アルプス市域も訪れ、詳細な地図を作成しました。
【図】大日本沿海輿地全図 甲斐・信濃 部分(南アルプス芦安山岳館蔵)
伊能忠敬は上総国(千葉県九十九里町)に生まれ、江戸時代後期に活躍した商人です。隠居した後の寛政7年(1795)、なんと50歳から江戸に出て天文学や測量を学び、55歳の寛政12年(1800)から文化13年(1816)にかけて全国を測量し、「大日本沿海輿地全図」を完成させました。別名伊能図とも呼ばれる全図は、縮尺によって大図(1/36,000 全214枚)、中図(1/216,000 全8枚)、小図(1/432,000 全3枚)に分けられています。
忠敬が甲斐国を測量したのは、17年間計10回の全国測量のうち、九州に遠征した際の7回目と8回目です。南アルプス市域には7回目の遠征(文化6~8年)で訪れ、文化8年4月に九州から江戸へ帰る途中で信州から甲州街道へ入り、4月22日に韮崎宿に宿をとりました。翌日、忠敬の測量隊は甲府を経由して身延を目指しますが、別の先手は「駿信往還」を南下し、直接身延を目指すルートをとりました。ここで忠敬が記した日記から、先手隊の測量ルートを辿ってみましょう。
四月二十三日
朝雲次第に晴る。一同六ツ後韮崎宿出立。先手(中略)甲州武川筋甘利郷七割の内、下条東割村、下条南割村枝石宮、御勅使河原、百五十間、六科村字門脇、百々村、右飯野村、左在家塚村、同吉田枝中村八太夫御代官沢登村、桃園村、両村字新田、以下中村八太夫御代官所、左右桃園村、滝沢川幅四十五間、小笠原村、中食、下宮地村、御朱印十六、三輪大明神領神主長沢石見、鮎沢村、古市場村、荊沢村駅制札迄測る。三里二十一町二十九間一尺、九ツ後着、止宿百姓文蔵。(佐久間達夫1988『伊能忠敬測量日記』より)
先手隊は日の出ごろの六つ時に韮崎宿を出発し、正午ごろの九つ時には荊沢宿に着いて市川文蔵家に宿泊しています。到着は正午という比較的早い時間ですが、測量の計算などが残るため、意外と早く外の作業を切りあげていたのかもしれません。この日の移動総距離は約14.1km、現在の徒歩の速度でも約4時間半かかることを考えると、測量しながらの行程としては非常に早い印象を受けます。宿泊先となった市川文蔵家は西郡屈指の豪農でした。忠敬の測量はこの7回目の遠征で幕府の正式な事業となっていたことから、宿泊場所もそれにふさわしい荊沢村の名主宅が選ばれたと考えられます。
日記には御勅使川と滝沢川の川幅がそれぞれ150間(約272.7m)、45間(約81.8m)と、当時の正確な川幅の記録なども見られます。こうした情報をもとに作成された大図に目を向けると、御勅使川の旧流路である前御勅使川も表現されています。大図には荊沢宿の北側の入口で道路が直角に曲がる「曲尺手(かねんて)」が表現されるなど、「駿信往還」別名「西郡道」が詳細に測量されています。同往還沿いには近隣の村々、三輪明神や伝嗣院などの代表的な社寺、琵琶ヶ池などの地名も表現されています。また、現在の鳳凰三山とは順序と名称が異なる「鳳凰岳、観音岳、地蔵岳」や北岳である「白根岳」、苗敷山を意味する「虚空蔵岳」など、当時の人々の山の認識を知る重要な情報も描かれています。
次回は甲府を経由し浅原から鰍沢へ至る忠敬本隊の測量ルートを辿ります。
※1 伊能忠敬の死後に地図がまとめられ、文政4年(1821)に幕府に献上された。
【南アルプス市教育委員会文化財課】