■跡部勝資(あとべかつすけ)
大炊助(おおいのすけ)の官途名で知られる跡部勝資(生年不詳)は、信玄、勝頼の二代にわたって、主君の間近に側近として控え、外交、内政ありとあらゆる分野に関わった官僚といわれています。
このことは、武田氏家臣団の中で、最も多くの朱印状を奉じていることからもうかがえます。この当時、当主である信玄や勝頼への訴えに対する証文や裁定は、直接当主の名で行うのではなく、当主の意を受けた「取り次ぎ者(奉者)」が、武田家の公印である「竜朱印(竜をかたどった印鑑)」とともに「○○奉之(奉者名これをうけたまわる)」と記して、奉者の名で出されることが普通でした。
【写真】奉書式朱印状の例 永禄11年(1568)甲斐善光寺の金堂建設のための木材を天神宮の森から伐りだすことを認めたもの。武田家の竜朱印とともに「跡部大炊助奉之」とみえる。(善光寺文書 『山梨県史』所収)
勝資が奉者となった朱印状は確認されている限りで、現在200通を超え、総数で約150通が知られる2位の土屋昌続を圧倒しており、勝資の家臣団における位置を知ることができます。また、『甲陽軍鑑』によれば、勝資は侍大将として300騎を率いたとされますが、この数は譜代家老衆は春日虎綱に次ぎ、山県昌景とともに2番目の数です。
もっとも、奉者となった朱印状の数は、信玄期では土屋昌続の方が多かったことが知られ、勝資は勝頼の時代なって、より重用された側近であることがわかります。その朱印状奉者としての独占的ともいえる地位を得た背景としては、武田氏の領土拡大にともなって有力な側近層が城代として転出したことや、土屋昌続が天正3年(1575)長篠の戦いで戦死ことなどにより、甲府における側近の顔ぶれが限定されたことなども指摘されています。
このような中、上杉氏との同盟構築を持ちかけられた際、すでに北条と同盟を結んだとして独断でこれを拒絶したばかりか、条件が以前と変らないため信玄・勝頼に披露するに及ばない、とまでいって言い切ったエピソードが伝えられており、このような独占的立場から、他の譜代の家老衆とは対立があったとも伝えられます。
そのためでしょうか勝資が長篠の戦いで主戦論を唱え、これが大敗を招いたとか、天正10年(1582)武田家滅亡の際、実際は、勝頼に従って討死した可能性が高いのですが、途中で逃亡したのだとか、余り芳しくない話が記される史料も多くみられます。
勝資は当時、現在の南アルプス市大師周辺に所領を有していたと推定されており、江戸時代の地誌『甲斐国志』には、了泉寺(りょうせんじ)の項に「跡部大炊介屋敷迹ヲ為寺ト云」とみえ、現在の了泉寺がその屋敷跡と伝えられています。また、了泉寺の南東約350mに位置する宮沢の深向院(しんこういん)は、真言宗であったものを、勝資が曹洞宗寺院として再興したものといわれています。
【写真】勝資の屋敷跡と伝えられる了泉寺
平成28年2月、南アルプス市教育委員会は、勝資と南アルプス市とのゆかりを示す説明板を了泉寺に設置した。(南アルプス市大師587)
【写真】勝資が再興した深向院
本尊釈迦如来坐像(県指定)は、南北朝時代の作。勝資も拝んだことでしょう。(南アルプス市宮沢1172)
なお跡部氏は、現在の南アルプス市小笠原周辺に拠点を持った、甲斐源氏小笠原長清の孫、長朝が、信濃国佐久郡跡部(現在の長野県佐久市跡部)に拠って名字の地としたことに始まるとさています。その後甲斐国に入り、勝資の父、祖慶(そけい『甲斐国志』および菩提寺である攀桂寺の記録では名を信秋とする)の頃には武田氏の家臣として甲府盆地北部の千塚周辺に所領をもったようです。
菩提寺である甲府市千塚の攀桂寺(はんけいじ)には、祖慶夫妻および息子勝資の位牌が納められています。背面に「元禄十四辛巳年 十月日 跡部宮内源良顕 施主」と見え、元禄14年(1701)に子孫である跡部良顕が奉納したものであることがわかります。良顕は、徳川幕府の旗本で、神道家としても知られる人物です。なお祖慶の位牌の背面には、「小笠末葉」ともみえ、これが「小笠原氏の末葉」の意であるとすれば、やはり南アルプス市域に源を発する始祖小笠原とのゆかりは、記して誇るべき出自だったのでしょう。
【写真】跡部家の菩提寺と伝えられる攀桂寺(甲府市千塚4-2-29)
【写真】跡部祖慶とその妻の位牌(攀桂寺)
祖慶の位牌の背面には「小笠末葉」と記される
【参考引用文献】
柴辻俊六編2008『新編武田信玄のすべて』
柴辻俊六ほか編2008『武田氏家臣団人名辞典』
平山優・丸島和洋編2008『戦国大名武田氏の権力と支配』
【南アルプス市教育委員会文化財課】