北杜市の実相寺に残る旧落合村川上の藍玉商浅野長右エ門が残した歌。そこから南アルプス市の藍染の足跡をたどる旅が始まりました。大正時代以降急速に失われていった市内における藍染の記憶はもはや細い糸となってしまいましたが、それでも、その糸をたぐると新たな記憶にたどり着くことがあります。
南アルプス市田島の小田切家は近所から「コウヤ」と呼ばれ、浅野長右エ門の明治31年『藍玉精藍売揚清算簿』にも販売先として記録されています。しかし、現在の小田切家では、資料が残されていないばかりか紺屋だった記憶さえも途絶えている状況でした。2015年夏、小田切家から発見された、一冊の文書『藍玉通』(写真1)。この資料が市内の藍染の歴史に新たな一筋の光を当てることになります。
『藍玉通』とは、藍玉などの掛売り(代金を後で支払ってもらう取引)の時に月日や品名、数量、金額を記入して、金銭を支払う時の覚えとする帳簿で、一般的に通帳(かよいちょう)と呼ばれます(写真2)。この通帳には明治21年、「田島の小田切善右衛門」が買主となり、藍玉などを仕入れた状況が記録されていますが、中でも注目されるのは「東京本材木町二丁目 三木輿吉郎」と記された藍玉などの売主です(写真3)。
三木輿吉郎(みきよきちろう)といえば、江戸時代に日本の藍葉生産の中心地であった徳島県阿波の中で、藍問屋の豪商であった三木家に代々受け継がれる当主名です。三木家の創業は1674年(延宝2年)、三木家の第2世高治が藍の取扱いを始め、第7世延歳が江戸に支店を設けて関東に進出し、第8世政治が関東一円に販路を拡大したと言われます(三木産業株式会社HPより)。この日本の藍玉生産・藍染業を代表する三木家からも、小田切家が藍玉を仕入れていたことを『藍玉通』は示しています。少なくとも明治20年代、おそらくは江戸時代から日本全体の藍生産、藍玉の販売網の中に甲州も組み込まれていたのです。
江戸時代から阿波藍の問屋を営んだ三木家は、明治に入るとインド藍の輸入を始め、ドイツからの人造藍の輸入を経て、現在では海外に現地法人を持つ世界的な化学薬品メーカーとなっています。一方、旧落合村の藍屋浅野家は明治末期に藍玉商の店を閉じますが、長エ衛門の息子の一人は大正6年にカリフォルニアへ渡り、アメリカとの輸入雑貨商を吉祥寺で営むなど海外との商いを生業としました。現在旧落合村川上で家を守る浅野修二さんは果樹を栽培し、インドネシアなど海外への桃の輸出にチャレンジしています。各地から藍葉を仕入れ、加工し、地域を超えて各地に売る。どちらも藍玉商で培われた広い視野が、世代を超えて今でも受け継がれているのかもしれません。
浅野長右エ門が北杜市の旧武川村神代桜の前で歌を詠んだ明治23年(1890)から125年後の2015年春。その歌に誘われるように、北杜市で育てられた藍の苗が手に入り、ふるさと文化伝承館でささやかながら藍の栽培を始めました。そして初秋の現在、藍は青々と茂り、花を咲かせ、もうすぐ種をつけます(写真4~7)。藍が生み出すさまざまな青は南アルプスの山々、その背後の青空と重なります。市内に残る藍の歴史と文化が南アルプスブルーとして続くことを願い、来年この種を蒔こうと思います。満開の桜の季節、芽吹くことを祈って。
【写真4】 【写真5】 【写真6】 【写真7】
【写真4】藍 初夏 ふるさと文化伝承館 6月18日
【写真5】藍 初秋 ふるさと文化伝承館 9月14日
【写真6】藍の花 初秋 ふるさと文化伝承館 9月14日
【写真7】伝承館で育てた生藍葉染めのストール
【南アルプス市教育委員会文化財課】