昨年、前御勅使川の右岸を守っていた堤防遺跡の下から、木の葉のような形に石を並べ積み上げた遺構(石積み遺構と仮に呼びます)が発見されました。今回はこの最新発掘情報をお伝えします。
【図1】調査地点位置図。地図は明治21年に作成された地形測量図 |
前御勅使川は、芦安から竜王を結ぶ県道竜王芦安線を明治31年まで流路としていたかつての御勅使川です。今回の調査地点は有野地内の水田や果樹畑が広がる一画で、北側に前御勅使川を臨みます(図1)。現在は川の流れた痕跡がほとんど見られませんが、少なくとも明治31年までは、ひとたび大雨が降ると水が流れ込み広大な前御勅使川の流れが出現したのです。
発掘調査によって見つかったのは、河川の砂利をかまぼこ状に積み上げ、さらに水流の当たる川表側、反対の川裏側に石を葺き、砂質の粘土で覆った堤防跡でした(写真1・2)。これ自体が地域の治水の歴史を知る上で重要な資料なのですが、さらに、この堤防の下には、これまでまったく見つかっていなかった遺構が眠っていたのです。
【写真1】発掘された江戸時代の堤防跡(西から)
【写真2】発掘された江戸時代の堤防跡(東から)
【写真3】石積み遺構遠景(南東から) |
【写真4】石積み遺構(西から) |
堤防という施設は、洪水などによって河床が上がると相対的に低くなっていくため、砂利などを積んでかさ上げされるのが一般的です。つまり、目に見えている堤防の下にはより古い堤防が造られている場合があるのです。そのため今回も堤防跡の下を掘り進めてみたところ、堤防ではなく東西約7m、南北4mに石を積んで造られた石積み遺構が発見されました(写真3・4)。とくに上流側にあたる西側には長さが50~70cmもある大きな石が並べられていました。こうした形の遺構は全国の堤防遺跡の調査でも類例がありません。さらに調査を進めると、石積み遺構の西側先端に、空洞となっている幹周り約50cmの樹木痕が発見されました(写真5)。これらの結果から当時の景観を復元すると、北側に前御勅使川の河原が広がったところに1本の樹木が繁り、その根元に石積み遺構が横たわっていたことになります(写真6)。遺構の年代は、出土した陶磁器から江戸時代、18世紀後半前後と推定されます。
【写真5】発見された樹木痕。木の幹や根は腐食して空洞になっていました
【写真6】木を復元した想像図。樹種はわかっていませんが、仮に松で復元してみました
さてこの遺構の役割ですが、長さが短いことから通常の堤防の機能を果たしていたとは考えにくい形態です。一つの可能性として、石積み遺構の南側にかつて堤防が存在し、そこから突き出て水流をコントロールする「出し」であったとも考えられますが、今回の調査では南側に堤防の痕跡は見つかりませんでした。もう一つの可能性として考えられるのは、治水にかかわる信仰の場であったというものです。
「石」、「水」、「樹木」のキーワードで他の類例を探すと、水を司る神社で有名な京都の貴船神社に、「船形石」と呼ばれる石を積んだ磐座(いわくら)が目に止まります。貴船神社は平安時代から雨乞い、雨止めなど水にかかわる信仰を集めた場所でもあり、洪水と干ばつに苦しんだ御勅使川扇状地の人々の祈りと共通点が注目されます。また『日本書紀』に「天津神籬(あまつひもろぎ)および天津磐境(あまついわさか)を起こし樹てて」という記述があります。神籬は神さまが宿る常緑樹を意味し、磐境は岩で作られたお祭りする場所という意味でしょうか。今回発見された遺構のイメージと重なります。
今回見つかった石積み遺構が、水にかかわる信仰の場所であることを裏付けるためには、地域に残る文書資料や考古学的に似た遺構の調査事例を発見し積み重ねていく必要があります。まだその答えはでてきませんが、この遺構は、御勅使川とともに生きたこの地域の人々の新たな歴史になることは間違いありません。
【南アルプス市教育委員会文化財課】