水防費を巡る争いの連載は先月号で終わりました。まさか、訴訟の収束後に実際に堤防の決壊が起き、南湖村に壊滅的な被害を及ぼすとは、、、やはり、過去から学ぶことは多いですね。
さて、今月は「南アルプス市の城館跡」として椿城をとり上げたいと思います。あまり知られていませんが市内には城館跡がいくつか遺されているのですよ。お城と言いましてもイメージしやすいような石垣に白壁の天守閣が立っているようなものではなく、お堀と土塁で囲まれた居館施設のようなものや、自然の地形を生かしたものなどのイメージの方が近いかもしれません。今後、断続的になるかもしれませんが城館シリーズとしてご紹介してゆきたいですね。
【「椿城」と「上野城」】
「椿城」といえば武田信玄の母である大井夫人の出身地として伝えられていますが、実は謎につつまれ、いくつもの伝承を持ったお城です。椿城は別名であって、本来は南アルプス市上野の地に構えられた「上野城」と呼びます。
櫛形山の東麓に発達した市之瀬台地の上にあって、北に市之瀬川、南に堰野川によってはさまれた細長い舌状台地の上、標高約410メートルに立地しています。台地先端では比高差約100メートルの崖線をもって扇状地と接していて、眼下には、甲斐源氏小笠原家の本拠とされる南アルプス市小笠原があります。小笠原家の始祖である小笠原長清は父加賀美遠光とともに鎌倉幕府において重用された有力御家人のひとりです。
【写真】椿城航空写真(上野の台地を北西から富士山方向を眺める)
江戸時代終わり頃の地誌である『甲斐国志』 古跡部には
「上野ノ城墟 古伝ニ上野六郎盛長ト云者ノ所築ナリ(中略)域内二三町歩林薄中ニ塁湟?然トシテ存セリ、塁の南面ハ村居東ハ畠ナリ本重寺ノ境内ニモ古塁アリテ子城ノ如シ地多山茶花ヲ以テ名山茶城トモ云北ハ一瀬川ニ枕ミ崩摧絶壁数丈(以下略)」
とあって、椿の花が多かったことにより椿城と呼ばれていることがわかりますが、「山茶花」と書いて「つばき」のことをさしています。
また国志からは、周囲に「土塁」も多く残されていたことがわかりますが、現在ではほんの一部でその名残と思われる高まりをうかがうことができる程度で、当時をしのばせるものは、台地北側にある基壇上に並ぶ五輪塔群や、やや南に下った場所にある本重寺くらいといえます。本重寺周辺の南傾斜面を中心に上野の集落が展開しています。よく誤解されるのですが、石垣や白壁の建物がある近世のお城ではなく、あくまでも中世の城館なのです。
【写真】椿城航空写真(本重寺周辺を南西から眺める)
【上野盛長と大井信達】
国志には先ほどご紹介した通り、上野盛長の築城とともに「大井氏此ノ城ニ在住セシコト」として戦国期大井氏の居城説についても伝えているため、現在でも上野氏もしくは大井氏ゆかりの城としてよく紹介されているところです。
上野氏は小笠原長清の子長経の七男、六郎盛長が上野を本拠とし、上野氏を称したことに始まるとされます。しかし三代目の政長の後に男子の後継がなく、秋山より養子を迎え、そこから秋山に改称したといわれているのです。
【秋山氏と本重寺】
秋山氏は加賀美遠光の長男光朝が同じ市之瀬台地の秋山を本拠としたことから始まり、光朝は源頼朝による甲斐源氏の排斥によって自害されたと伝承されています。ただし、子孫はその後も発展し鎌倉幕府の御家人として、さらに全国各地で活躍していったこともわかっています。
本重寺が創建されたのは弘安年間(『甲斐国志』)あるいは正中二年(1325『寺記』)といわれており、開基は秋山光朝の子の光定、開山は日蓮の弟子日興と伝わります。日興上人から光定へ与えたとされる「板本尊」(南アルプス市指定文化財)も現存しています。
また、前述した五輪塔群の中には「比丘尼妙意 嘉暦三(一三二八)年十月十三日」の刻銘がある五輪塔があり、天明四年(1784)の『当村古城跡由緒御尋ニ付書上』には、光定の後とみられる光吉とその妻についての嘉暦年間の事件に関する記述があるため、この事件に関しての供養であることが想定されます。この五輪塔群は現在も上野に在住されている秋山氏によって祀られているのです。
【写真】木造板本尊
【写真】五輪塔群
【大井合戦と上野城】
先ほど触れたとおり、『甲斐国志』では、戦国期の記述として戦国期大井信達の居城説も伝えています。
「上野介信達法諱ヲ本習院能岳宗芸ト号ス(中略)本村ニ本重寺ト云フ寺アリ(以下略)」とあり、本重寺の名を大井信達の法号「本習院能岳宗芸」の転化と考えたことを根拠としているのです。ただし、それ以外にこれを示す根拠に乏しいのも事実です。
大井信達は西郡に勢力を持った土豪で武田信虎正室の父にあたり(信玄からみて祖父)、「勝山記」などには信虎との抗争の様子を見ることができます。
椿城の合戦として考えられているものに永正一二年の大井合戦の記述があります。「屋形方大勢ナリト云ヘトモ、彼ノ城ノ廻リヲ不被知間、皆深田ニ馬ヲ乗入テ、無出打死畢ヌ」とあり信虎勢が城周辺の深田に馬を乗入れたことで抜け出せず大敗したという記述です。
この記述については疑問も示されており、椿城周辺にも水田はあるものの、深田とは言えず、むしろ台地下の「田方」と呼ばれる湧水地帯一帯で「大井」の地名のある場所にこそ大井氏の本拠地があると考えるべきで、この記述にある城(館)は大井氏ゆかりの古長禅寺周辺の地にあったもので、そこでの合戦であると考えるべきとの指摘もなされているのです。
現在ではどちらか一方が正解であると判断できる材料はありませんので、この伝説は後世の調査に持ち越されるわけですが、実は城跡の発掘調査などもされていて、少しずつ新たな判断材料も増えてきています。お城の様子がどうだったのか少しずつ判明してきているのです。これらについては、また改めて椿城伝説の第2弾として、いずれご紹介したいと思います。
現地は昔の姿こそありませんが、城域内には地元櫛形西小学校の児童たちが作製した案内板やMなびのシートも設置されています。「文化財Mナビ」はPC用サイトもあって、地元の子供たちの音声ガイドも聞けますので、ぜひ子供たちの声を聞いてみてください。
【南アルプス市教育委員会文化財課】