はじめに
ここに「水防費分担金請求之訴状」と書かれた一通の訴状があります。明治24年(1891)、今から120年以上前に、鏡中条村(現在の南アルプス市鏡中条地区)が南湖村(現在の南アルプス市南湖地区)を相手取って起こした裁判の訴状です。
本格的な台風シーズンを迎えた八月、今回から数回にわたって、両村が村同士で激しく争い、最終的には大審院(現在の最高裁判所)にまでもつれ込んだ、この地域の大事件について、その顛末(てんまつ)を紹介したいと思います。この事件は、一般にはあまり知られてないのですが、これを今掘り起こすことによって我々は地域防災を考えるヒントや教訓を得ることができます。
事件の発端
ことの発端は、鏡中条にある釜無川の堤防「将監堤(しょうげんてい)」を守るために掛かった水防費の分担の問題です。
「将監堤」は、2008年9月12日号・10月1日号の浅原村の回でも紹介したように、釜無川の対岸に永禄3年(1560)頃造られた「信玄堤」によって、南アルプス市側に向くようになってしまった釜無川の流れを、対岸に押し戻すことを目的に構築された堤防です。まさに釜無川西岸の水防の要となった堤防で「将監堤一万石」と謳われたとおり、決壊した場合その影響は下流の13カ村、石高一万石に及ぶと云われ、享和3年(1803)以降その影響の大きい6カ村(鏡中条・藤田・西南湖・和泉・東南湖・戸田)、文政12年(1829)以降は特に影響の大きい鏡中条・藤田・西南湖・和泉の4カ村で「水防組合」を結成してその水防費等を分担してきました。
この享和3年、文政12年という年は、それぞれ前年に将監堤が決壊する大水害が起こっており、これら水害が組合結成、改組の契機になっていたと推定されます。この内、水防組合結成の契機となった享和2年の水害の図が、鏡中条の長遠寺に残されていますが、これによれば将監堤が決壊した場合、現在の南アルプス市域南半分のみならず、洪水流は遠く鰍沢にまで及び、その影響がいかに大きかったかを知ることができます。
その将監堤は明治22年(1889)、明治以降最大の危機を迎えます。折からの台風と見られる豪雨により増水した釜無川によって堤脚が洗堀され、あと「二、三尺で」決壊するギリギリのところまで追い詰められたのです。この時は幸いにして、鏡中条村を中心に足掛け4日間に渡って展開された不眠不休の水防活動もあって、決壊をまぬがれることができました。しかし問題はその後。この水防に掛かった費用963円30銭6厘を鏡中条村が従来の定約に基づく割合で、水防組合村の藤田村と南湖村(組合村の西南湖村、和泉村は明治8年に両村に東南湖村・田島村・高田新田を加えて合併して南湖村となっていた。)に負担するよう求めたところ、藤田村は速やかにこれに応じましたが、一方の南湖村は度重なる請求にもかかわらず、翌明治23年(1892)に至っても頑としてこれに応じなかったのです。南湖村にしてみれば、これだけの費用を要したといわれても、事前に了解もなく、自らの見ていないところで行われた部分もあり、文政11年(1828)以降60年間決壊のなかった他村の堤防である将監堤に費用負担を続けることに疑問を感じていたのかもしれません。一方の鏡中条村は、かねてからの盟約もあり、決壊すれば広汎に被害のある堤防を自らの負担のみで保守することには到底納得できなかったのでしょう。
提訴
鏡中条村はついに南湖村を相手取って明治24年4月18日、旧西南湖・旧和泉村分の負担295円89銭7厘に加え、これまでの利息金55円48銭1厘の支払いを求め、甲府地方裁判所に提訴。以後2年にわたる法廷闘争がはじまるのです。(つづく)
【南アルプス市教育委員会文化財課】