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南アルプス市は、山梨日日新聞社とタイアップして「南アルプス市ふるさとメール」を発信しています。ふるさとの最新情報や観光情報、山梨日日新聞に掲載された市に関係する記事などをサイトに掲載し、さらに会員登録者にはダイジェスト版メールもお届けします。お楽しみください!

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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

2014年6月

【季節の便り】

南アルプスがユネスコエコパーク(生物圏保存地域)に登録されました

 6月11日深夜(日本時間)、スウェーデンで開かれた「第26回MAB国際調整理事会」において南アルプスのユネスコエコパークへの登録が審議されました。
 山梨県内の申請自治体の韮崎市、北杜市、早川町の首長が本市に参集し、大勢の報道陣に取り囲まれるなか、12日午前1時すぎ、中込博文南アルプス市長が電話で登録決定の報告を受けました。首長らは握手を交わし、JAこまのが6次産業化の取り組みとして生産した「すももサイダー」で乾杯をしました。

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 ユネスコエコパークとは、地域の自然と文化を守りながら地域社会の発展を目指す取り組みです。南アルプスの山奥で自然が残る「核心地域」と、豊かな自然と人々が触れ合うことができる「緩衝地域」、自然と調和して人々が生活している「移行地域」の役割の異なった3つの地域で構成されています。
 今後は、それぞれの地域においてエコパークの理念のもと、自然と共に豊かに暮らせる南アルプス市を目指していきます。

 詳しくは、南アルプスユネスコエコパーク公式サイトをご覧ください。

 

 

 

 

[南アルプス市役所 秘書課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

平安時代の信仰(3)
― 山懐の秘仏 ―

 大嵐地区の山懐に抱かれた寺院「善応寺」。ふだんお寺の関係者以外に訪れる人も少ない山中の「観音堂」に千手観音像は安置されています。

A【写真】善応寺に続く階段 
A1721【写真】善応寺の観音堂 享保6年(1721) 
A_3【写真】千手観音立像(厨子内)
A_5【写真】千手観音立像 
A_6【写真】長谷寺の十一面観音像
A_8【写真】長谷寺の十一面観音像 


 善応寺は、社記によれば鎌倉時代、仏源禅師(1215-1290)の開山とされますが、その立地や周辺から平安時代の土器が見つかっていることなどを考えると、おそらくその起源は古代にまで遡るものと考えられています。

 南北朝時代の善応寺周辺は「須沢城」というお城であったと伝えられますが、須沢城は2007年9月14日号でも紹介したとおり、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の際に足利尊氏の執事の高師直の養子師冬が、対立する上杉方に攻められて自刃した城として『太平記』など登場します。

 善応寺の千手観音立象は像高182センチ。寺記によれば、この霊像は甘利山の奥にある大笹池ノ西、都沢という場所から出現し、塩ノ谷三郎という人が観音堂を建立して安置したとされていますが、2014年4月14日号でも紹介した長谷寺の「十一面観音立像」とは細身で長身な姿がとてもよく似ています。長谷寺の十一面観音立像の方が造高168センチとやや小ぶりですが、いずれも11世紀の像立と推定され、共に内刳(うちぐり)のない桂材の一木造(いちぼくづくり)。おそらく、御勅使川の上流と下流、集落の中心と山中の聖地にあって一対のものとして信仰を集めてきたのでしょう。

 善応寺の千手観音象は、長く山中にあったことから、虫損が激しく、また江戸時代には火災にあって大きく損傷し、所々炭化しており、脇手も全て失われてしまいましたが、現在も享保6年(1721)再建の観音堂に造り付けられた厨子の内に秘仏として大切に祀(まつ)られています。

 この観音堂の中には一対の棟札が残されています。一方には「享保六年丑年 奉修十一面観世音菩薩?二夜三日開帳成就祈祈 八田山長谷寺」、もう一方には「奉修千手千眼観自在尊供?秘法建堂成就祈祈 八田山長谷寺」とみえ、享保6年(1721)の長谷寺十一面観音像のご開帳に時を合わせて、焼失した善応寺の観音堂を再興したことがうかがえ、ここでも両像の密接な関係を知ることができます。

 文化11年(1814)に編纂された『甲斐国志』には「本尊ハ阿弥陀、観音堂アリ」とみえますが、慶応4年(1868)の寺記を見れば、この時点で既に本堂はなく(焼失後再興されなかった可能性もあります)、お寺自体がこの時すでに無住であったことも分り、千手観音像のおかれた苦難の歴史がにじみます。

 現在の尊像の痛々しいお姿に、今回は写真の掲載も躊躇(ちゅうちょ)しました。しかし、長く無住の寺に安置され、焼失の危機にさらされながらも、千年の時を経て、もの言わずたたずむそのお姿は、我々に「重厚な時の重み」を教えてくれているようで、思わず手を合わせたくなります。皆様にもそのようなお姿を知っていただきたく、今回はあえてお出ましいただきました。

※本像は、このように信仰の対象であり秘仏として大切に守られています。一般に公開されているものではありません。写真は文化財調査実施に際し、お寺のご好意により特別に撮影させていただいたものです。

 

 

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】