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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

【連載 今、南アルプスが面白い】

根方の魅力⑨~高尾穂見神社と村々の祈り(上)

 前号で市之瀬台地の第一の川ともいえる市之瀬川について紹介しました。今回は、同じく市之瀬台地を流れる主要河川といえる深沢川をずっと遡った上流、根方地域からは離れ山方地域の話となりますが、櫛形山の中腹に根ざした神々しい文化の歴史について紹介したいと思います。
 深沢川は市之瀬台地から流れ出ると台地の裾野を南流する大和川と合流し滝沢川となります。台地を削り深い谷を作る川で台地上では平岡と上宮地との境を流れ、その上流は櫛形山へと源流をたどることができます。今も平岡の集落から川沿いに上る道がありますが、しばらく上ると、窪地や湧水の地の利を活かしたいわゆる山村集落「高尾」の集落が現われ、その傍らには村人を見守るかのようにまさに神々しい空気に包まれる神社「穂見神社」があります。
 「穂見神社」。その名からは「稲穂を見る神」、つまりまさに豊穣を願った信仰の対象であったことが推察できますが、今回から次回へとわたり、山腹に佇む穂見神社の歴史をひもとくとともに、まるで深沢川の流れが紡ぐかのように、根方、原方、田方との関わりの中で成り立つ神社であることを紹介できればと思います。
 
A赤い鳥居 A森に囲まれ
【写真左】櫛形山の中腹、斜面に現れる赤い鳥居
【写真右】森に囲まれ、神々しい空気に包まれた穂見神社

 穂見神社は、櫛形山の中腹標高約870mに立地する高尾の集落の北西端に所在し、本殿と御正体が県の文化財に指定され、太太神楽と神楽殿、さらに御神木である大スギが南アルプス市の文化財に指定されています。夜祭やかつては一晩中舞われていた夜神楽で有名ですが、夜祭の概要については2009年11月13日号をご覧ください。今年もまた11月22日の夜には県内外を問わず多くの方が集まる夜祭が盛大に行われることでしょう。
 
Aかぐらでん Aおかぐら 
【写真左】夜祭の神楽殿と月
【写真右】神楽殿で舞われる夜神楽や狐が蒔く福餅が人気
 
 穂見神社は延喜式に登場する式内社で、平安時代に存在していたことは確実です。しかし、延喜式では巨摩郡の項目に取り上げられていますが現在の巨摩郡には穂見神社は複数存在しているため、どの穂見神社が延喜式に扱われた神社なのか、研究者間でも見解が分かれるところです。
 では高尾にある穂見神社(高尾山穂見神社)はどの時代まで遡ることができるのか、穂見神社の由緒について甲斐国志など江戸時代の終わりごろから明治時代にかけて作成された地誌類の記述からみてみましょう。
 
『甲斐国志』巻之六十七神社部十三

一 御崎明神高尾村 ~中略~白山権現・三躰王子大福王子・大寿命王子・大智徳王子ヲ配祀ス俗ニ文殊ト称ス懸鏡一面円径八寸六分中央ニ衣冠ノ神像ヲ刻ス左ノ方ニ三躰王子甲斐ノ国八田ノ御牧北鷹尾、右ノ方ニ天福元年太才癸巳十二月十五日、其ノ背ニ大勧進蓮華房弁慶ト刻セリ又古碑アリ享保十三年戊申七月洪水ノ時山岸崩レテ土中ヨリ出ヅト云フ其ノ形チ殺上豊下ニシテ上梢囲ミ一尺三寸五分、下梢一尺六寸二部、長サ一尺四寸五分正面ニ穂見ノ神社ト正書ヲ以テ刻セリ其ノ左ノ方ニ両三字アルガ如クナレドモ欠落チテ弁ジ難シ又其ノ左ニ文治三ノ字彷彿ト見エ益ミ左ニ智家方ノ三字ヲ鐫ス因リテ穂見ノ神社ナリト云フ十一月朔日ヲ以テ祭ル授福ノ神ト称シテ登拝ノ者多シ神主穂坂丹波口四男二女二

 甲斐国志以外の地誌類も大体これと同じ内容ですが、これに加え、『日本社寺明鑑』や『社記并由緒書(社記)』での記述も併せて考えてみると、江戸時代の終わりから明治時代には、高尾山穂見神社の由緒を示すものとして概ね次の資料の存在を根拠に挙げていたことが分かります。
 
(1)「懸鏡(御正躰)」
(2)「古碑」
(3)「棟札」

 これらは現在も南アルプス市内に残されており現存しています。地誌などで記載されたことはあったものの、最近では県の文化財に指定されている御正躰(みしょうたい)以外はあまり紹介されることはありませんでした。


(1)「懸鏡(御正躰)」
 昭和40年に「銅製懸仏(御正躰)」として県の文化財に指定されています。
 銅製の円形鏡で鏡径は26.4㎝、縁厚0.5㎝を測ります。磨かれた鏡面中央に、座った衣冠束帯姿の男神像が描かれており、男神像の左右に銘が陰刻されています。

A御正躰表 A御正躰裏
【写真】懸鏡(御正躰)(表・裏)
 
銘文は以下の通りです。
 ●
  右「三躰王子
   甲斐国八田御牧北鷹尾」
  左「天福元年大才癸巳十二月十五日」
 
 ●
  右「大勧進蓮幸房弁慶」
  左「大勧」(タガネでかき消されている)
  
  ほぼ甲斐国志の記述どおりといえます。
 「北鷹尾」とは、南アルプス市高尾のことを指し、これに対して富士川町(旧増穂町)平林地区にある氷室神社のあたりを「南鷹尾」と呼ばれていました。
 つまりこの御正体には、年号と穂見神社の所在地を示す地名とが揃っている点で貴重で、鎌倉期を示す天福元年(1233)の銘は、神像が描かれている御正体の中で年記を有するものでは全国的にみても現存最古であるといわれます(文化庁、山梨県教育委員会2006 『山梨県の文化財 -文化財集中地区特別調査報告二十三集』集中調査報告書)。「穂見神社」の名こそないものの、信仰の場であったことを物語る貴重な資料といえますし、また、八田牧の存在など南アルプス市にとって重要な情報が詰まったものともいえます。

 次に穂見神社と銘があるものを紹介します。
(2)「古碑」
 甲斐国志に享保13年(1727)の洪水の際に山岸が崩れて出土したとある、安山岩製の石棒状の資料で、櫛形町誌では「如法経塔」とされています。高さ(全長)46.1㎝、最大幅16.0㎝を測るもので。銘が陰刻されています。

A古碑 A古碑実測図
【写真左】古碑、【図右】 古碑の実測ならびに銘文部分の拓本

銘文は以下の通りです
 「穂見神社
 如法経
 文治三才
 智家方」


 この古碑には平安時代末期の文治3年(1187)とあり、御正躰よりも時代を遡ります。
 甲斐国志では「如法経」の三字が「欠落チテ弁ジ難シ」とされています、確かに「如法経文治三才」の文字は磨耗が激しく、平安末期の時代性を示している信憑性があります。しかし、残念ながら「穂見神社」の銘については字体ならびに文字の遺り具合に明らかな違いがあり、『櫛形町誌』にあるように後から追刻されたものの可能性は否めません。
 残念なことに現在の高尾の集落にはこの史料の出土地点や当時のことについて伝承されていませんので詳細はわかりません。穂見神社の名前は後から刻まれたもののようですが、12世紀末の資料が遺されていた点は重要といえます。
 また、「如法経」とは、この場所が修験者の修行にかかわる場であったこと、もしくは経塚の存在を示すものと考えられ、穂見神社の性格を考える上でとても興味深い資料です。
 文治3年の年号を持つものとしては他に古扉の残欠資料がありますが、書き直しなど後世に手が加えられた可能性があるので、より詳しく調査をすることで新たな事実が発見できるかもしれません。

 では、高尾に伝わるものの中で、後で書き足されたものではなく「穂見神社」の銘のみられる最も古い歴史的な資料は何でしょう。
 江戸時代まで時代が下りますが、現在県の指定となっている「穂見神社本殿」の指定の根拠となっている2枚の棟札があり、そこに穂見神社の名が記されています。
 この棟札をよく観察することで、ここにも南アルプス市の歴史をひもとくヒントがたくさん隠されていることがわかりました。
 この続き、棟札については次回お伝えしたいと思います。


 【南アルプス市教育委員会文化財課】

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