根方地域の中心的存在といえる「市之瀬台地」。台地上には「市之瀬川」という川が流れ、「上市之瀬」、「下市之瀬」という地名もありますが、そもそも「市之瀬」という名前にはどのような意味があるのでしょう。
地名や物事の名称の由来には諸説あるものですが、ここでは、この地域の歩みから少し考えてみたいと思います。
市之瀬台地はこれまでに幾度か紹介したとおり、櫛形山の裾に広がる平面形が扇の形をした台地で、扇の要にあたる部分は上市之瀬の集落の西端で、市之瀬川が山裾を開析した様子がよくみとめられ、この台地を形作る中心的な川であることがわかります。この市瀬川沿いに展開する集落のうち、上流側にあるのが「上市之瀬」、下流側にあるのが「下市之瀬」といえます。
現在は区で呼ばれる「上市之瀬」、「下市之瀬」の集落は江戸時代にはそれぞれ「上市之瀬村」、「下市之瀬村」といい、さらにもともとは一つの村で「市之瀬村」といいます。検地帳からみた市之瀬村の変遷は櫛形町誌に集成されており(『第三編 町の歴史 第四章近世』、『第四編 人工と土地と水 第二章 土地』)、慶長6年(1601)には「一瀬新居村」とあり、万治元年(1658)までは一つの村として認識されていたことが分かり、寛文6年(1666)からは「市之瀬村上分」、「市之瀬村下分」のように村としては分村していないものの実質的に上下二つにわかれていた様子がみとめられ、享保9年(1724)には「上市之瀬村」、「下市之瀬村」と完全に分村していたことがわかります。
また、地域の方にお話を伺うときに時折耳にするのが、「いちのせ」という名について、市之瀬川は暴れ川で、氾濫しては石や土砂を運んでくるため「石を乗せる川」→「石乗せ川」なまって「いちのせ川」となったといったお話で、この地域が市之瀬川の氾濫による水害に苦しめられてきた歴史がよく分かる逸話で大変興味深いものです。ただし、名称の由来としては多少強引さを否めません。
市之瀬村の表記についてみてみると、明治期まで「市之瀬」や「一之瀬」、「一瀬」「一ノせ」などが混在して使われています。全国的にみて「いちのせ」という名称には「一之瀬」、「一瀬」という漢字を用いることの方が多く、通常その地域での「一番の瀬」という意味を表しているようです。
では市之瀬台地の場合はどうでしょう。市之瀬川は最初にお伝えしたとおり市之瀬台地を扇に例えたときに要の部分に流れている、市之瀬台地を形成する中心的な川といえ、まさに一番の瀬にふさわしい川といえます。
一番の瀬というのには、大きさや水量、もしくは暴れ川であることなど、総合的にみて古くよりこの地域に一番影響を与える川であったことと推察されます。
山から流れ込む「市之瀬川」は台地をも開析し、市之瀬台地の下に広がる扇状地も形成してます。いったん暴れだしたら、上市之瀬や下市之瀬の集落だけでなく、台地上の多くの集落やさらに台地の下の「川上」「落合」などの多くの集落をも巻き込む水害となるのです。
【写真】昭和34年の台風7号(伊勢湾台風)による上市之瀬の被害の様子(櫛形町発行閉町記念写真集「櫛形讃歌」より)
まさに「一番の瀬」といえる「市ノ瀬川」。その歴史を物語る証拠が今も市之瀬川のほとりに見つけることができます。
市之瀬川に沿って、県道伊奈ケ湖公園線を伊奈ケ湖に向かって上っていくと、上市之瀬の集落を抜けた左手に「県営砂防事業発祥之地」という石碑が現れ、川の対岸には歴史の厚みを感じさせる苔むした石積みを見ることができます。
【写真左】「県営砂防事業発祥之地」の碑、【写真右】下市之瀬の石堤
この石積みは市之瀬川の岸が削られるのを防ぐための石積み(護岸)で、この工事は山梨県の近代砂防工事の先駆けといえ、国の直轄による砂防工事が開始される前の明治14年(1881)に山梨県で初めての県単独事業として行ったものなのです。
山梨県で最初の護岸工事がこの市之瀬川であるということは当時の山梨県にとって市之瀬川が与える影響をいかに考慮していたかということが分かります。これら砂防の歴史や水害の歴史については2009年07月15日号で詳しく紹介しています。
南アルプス市全体でみたときには砂防や治水といえば「御勅使川」の存在が大きいですが、櫛形山裾の地域で考えると、まさに「市之瀬川」あるいは市之瀬台地を削り流れる河川の数々といえ、これらの川といかに共存していくかにかかっているといえるのです。
次回は同じく市之瀬台地を流れる河川である深沢川のずっと上流、根方地域からは離れてしまいますが、櫛形山中腹にある神社を通して川や山、そして根方地域や田方地域との関りについて考えてみたいと思います。
【南アルプス市教育委員会文化財課】