これまで6回に渡り、扇状地の成り立ちや人々のくらし、信仰などを紹介してきました。私たちの足元には、様々な物語や歴史がまだまだ眠っていますが、今回は明治時代から現代まで続く扇状地の歴史を俯瞰することで、一度物語の区切りにしたいと思います。
【写真・左】飯野専売支所跡石柱
【写真・右】大正時代の商家。「たばこ」の文字が見えます(『夢 21世紀への伝言』 白根町より)
江戸時代から明治時代に入り、明治30年(1897)、飯野に県内唯一の集積場となる煙草の専売支局が作られると、付近では煙草栽培が一層盛んになり、国道52線沿いには煙草を貯蔵する倉庫町が形成されました。煙草を栽培する農家のほかにも、刻(きざみ)煙草を生産する加工業者が乱立し、その数は100社前後あったとも言われています。しかし、明治37年(1904)、日露戦争の戦費調達のため政府が煙草専売法を実施し、煙草の生産から販売までが国営事業化されると、市内の煙草産業は急速に衰退しました。変わりに養蚕が主要産業となり煙草畑から桑畑に転作され、扇状地の景観が一変します。その一方で、西野村ではいち早く果樹栽培に取り組む人々も現れ、現在のフルーツ王国の嚆矢(こうし)となりました。その後輸出産業の花形であった養蚕業も、昭和5年に起きた昭和恐慌時の生糸価格の暴落を機に衰退し、現在の主要産業である果樹への転換が図られました。
【写真・左】倉庫町にあった製糸場 大正初期(『夢 21世紀への伝言』 白根町より)
【写真・右】製紙工場 大正~昭和初期(『夢 21世紀への伝言』 白根町より)
【写真】ロタコの滑走路跡(飯野) |
第2次世界大戦末期には、乾燥した広大な土地が陸軍から飛行場の適地と判断され、暗号名で「ロタコ」(御勅使河原飛行場)と呼ばれる秘匿飛行場の建設が昭和19年(1944)に始まりました。ロタコ建設も乾燥した扇状地であるがゆえ歴史に刻まれた1ページです。
戦後の昭和35年(1960)、駒場に御勅使川の伏流水を水源とする駒場浄水場が建設され、扇状地に暮らす人々の悲願であった飲料水の問題がほぼ解消されました。昭和41年(1966年)には釜無川右岸土地改良事業が着手され、徳島堰のコンクリート化によって安定した水量が確保されるとともに、その水を利用したスプリンクラーが扇状地全体に張り巡らされ、扇状地全体の灌漑(かんがい)化も一気に進むことになります。現在ではスプリンクラーを通じ、散水された徳島堰の水が、サクランボやスモモ、モモ、ブドウといった南アルプス市を代表するフルーツを育んでいます。
【写真・左】昭和30年代の徳島堰と桑畑
【写真・右】昭和31年、野呂川上水道起工式に参列した地域の人々(『夢 21世紀への伝言』 白根町より)
これまで見てきたように、先人たちは「お月夜でも焼ける」といわれるほど極度に乾燥した扇状地を舞台に、古くから海岸地域とも交流し、麦や雑穀などの畑作物を作りながら、遠方から水路を引いて一部では水田を営み、さらに畑作物の生活を補うため外の広い世界に糧を求め作物を野売りし、過酷な環境を生き抜いてきたのです。先進的な技術を取り入れながら活路を見出す西郡の人々の開拓者精神は、「西郡魂(にしごおりだましい)」と呼ばれます。この「西郡魂」の物語は、産業・経済の低迷や少子高齢化、農家の後継者不足など多くの問題に直面する現代でこそ、語り継がれる歴史ではないでしょうか。
[南アルプス市教育委員会文化財課]