前回は天井川の進行に伴う、南アルプス市落合地区を中心とした河川の立体交差と、その仕組みについて紹介しました。
しかし、南アルプス市南端部に見られる河川の立体交差は、実はここだけではなく、ほかにも数多く存在しています。【写真】を見れば、南アルプス市を流れてきた河川と釜無川の合流点では、河川が複雑に立体交差していることが分かります。
ここでは、長い間の試行錯誤の答えとして、それまでの合流関係にとらわれず、山から流れ下り天井川化する河川同士、平地の湧水などを基点とする内水河川同士が、それぞれ一本にまとめられ、交差するように整理されているのです。そして、それぞれの交差点には樋門(ひもん)と排水機場が設けられ、洪水時の逆流に備えています。
このほか、視点を山間部に転じても、市内には天井川への対策としてさまざまな工夫を見ることができます。
そもそも、天井川を作る砂礫が川に流れ出すのを防ぐ工夫、2008年11月1日号で紹介した「芦安堰堤(あしやすえんてい)」などの砂防ダムです。
この芦安堰堤は、大正5年(1916)から工事が始まった、日本で初めてのコンクリート製のダムとして知られています。
【写真・左】芦安堰堤
【写真・右】 〃 大正5年(1916)の着工の銘板
しかし、南アルプス市の近代砂防工事の歴史はさらに遡ります。明治14年(1881)、国の直轄事業が始まるのを待たず、市之瀬川の岸が削られるのを防ぐための石積み(護岸)工事が、山梨県で初めての県単独事業として行われていたのです。
市之瀬川に沿って、県道伊奈ケ湖公園線を伊奈ケ湖に向かって上っていくと、現在でも、上市之瀬の集落を抜けた付近に「県営砂防事業発祥之地」の碑とともに、130年近くも風雪に耐えて苔むした石積みを見ることができます。
【写真・左】「県営砂防事業発祥之地」の碑
【写真・右】下市之瀬の石堤
富士川(釜無川)に流れ込むこれら河川の砂礫の調整は、当時の山梨県の物流の生命線であった「富士川舟運」に影響を及ぼすため、とても重要でしたが「山梨県ではじめて」「日本ではじめて」といった砂防事業が南アルプス市で行われてきたことは、裏を返せば、ここ南アルプス市域が、近代初頭に全国の自治体が直面していた水害の状況を端的に示しているといえるでしょう。
このように、現在の南アルプス市の河川景観は、人々の積み重ねられたさまざまな知恵と工夫によってかたち造られてきたものといえます。そして現在も河川へのたゆまぬ働き掛けがあって、はじめて我々の生命や財産が守られているのです。
【南アルプス市教育委員会文化財課】