前回のふるさとメールに引き続き、今回のふるさとメールでは明治・大正時代の水害とそれに対する近代砂防工事について話を進めていきます。
前回ご紹介した明治29年の水害をはじめとして、明治時代には大規模な水害が多発しました。急速に山林伐採が行われ、周辺の山々が荒廃したことが原因です。では、いったい何が山の荒廃を招いたのでしょうか。それには近代化を急ぐ「明治」という時代が深くかかわっています。
明治6年、県知事となった藤村紫朗は、山梨県の振興策として「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」政策を掲げ、山梨県勧業製糸場を甲府に設置し、県内で蚕糸産業の育成を目指しました。その結果、煮繭や工場の動力のための燃料である大量の薪炭(しんたん)が必要となり、山林の伐採が拡大することとなりました。さらに、江戸時代には入会地となっていた山林が、明治14年以降政府の財源確保のため官有林に組み込まれたため、利用を制限された人々による森林の乱伐、盗伐を招き、山の荒廃が急速に進むことになります。こうして治水の土台である「治山」が損なわれ、大規模な水害が頻繁に起こりました。
【写真】空石積で造られた大和川堰堤(山本政一氏蔵) |
芦安堰堤は山岳地域の芦安大字芦倉に設置された重力式堰堤です。コンクリートを使用した日本で初めての本格的な砂防堰堤で、大正5年に着工され、大正7年に竣工しました。しかしすぐに砂礫で埋まったため、アーチ式堰堤を上部にのせ、かさ上げする工法が採用されます。その結果、重力式堰堤の上にアーチ式堰堤がのせられている、全国の堰堤の中でもきわめて特徴的な構造となりました。堤高は22.65mで、アーチ式堰堤が完成した大正15年当時では、日本で最も高い砂防堰堤でした。
【写真】芦安堰堤 アーチ式竣工時(左)と建設時(右)
(『芦安堰堤』 山梨県土木部砂防課・山梨県峡中地域振興局建設部より)
山地から平地に至る下流部にも、コンクリートを用いた源堰堤が造られました。芦安堰堤に次いで、大正7年に着工され、大正9年竣工しました。高さ7m、長さは109.1mあり、竣工当時は日本で一番長いコンクリート堰堤でした。
御勅使川の砂防工事の概要を報告した内務省の土木技師蒲孚(かばまこと)は、芦安堰堤と源堰堤を「御勅使川砂防の双璧」と表現しています。
このように日本の治水、砂防事業の画期となる堰堤群が整備されることにより、御勅使川の治水は大きな転換点を迎えることになります。以後下流域での砂防工事も進み、源堰堤より下流域での大規模な水害はほとんど見られなくなりました。芦安堰堤や源堰堤は、御勅使川扇状地や甲府盆地に生きる人々の暮らしを今も支えているのです。
【南アルプス市教育委員会文化財課】