今回紹介する仏様は、前回の阿弥陀様と同様、現在実施中の市内仏像等悉皆(しっかい)調査の過程で『発見』されたものです。調査の結果、この仏様は平安時代まで遡る、南アルプス市最古級の仏像であることがわかりました。市内でも平安時代まで遡る仏像は5件に過ぎず、1件が国指定の重要文化財、3件が県指定文化財になっています。
【写真】十一面観音を中心に、向かって右が毘沙門天、左が不動明王
今回紹介する仏様は、もともと若草地区寺部の円通院に安置され、現在は円通院が廃寺となったため、下今井地区にある隆円寺が管理している木造十一面観音(もくぞうじゅういちめんかんのん)及び毘沙門天(びしゃもんてん)、不動明王立像(ふどうみょうおうりゅうぞう)です。
この十一面観音像は、『甲斐国志』によれば、別名「日不見観音(ひみずかんのん)」ともいわれ、実は33年に一度しかご開帳されない秘仏として大切に祀(まつ)られてきた仏様だったのです。これまで存在が広く知られていなかったのには、このような事情があったのでしょう。今回はお寺にお願いして特別に許可を受け、調査をさせていただくことができました。また、よく観察すると、このお像の光背や台座の一部が焼け焦げて失われています。円通院のお堂は、昭和59年に火災により焼失し、その後再建されることはありませんでしたが、このお像は間一髪、焼失の危機を免れたのだそうです。観音さまの霊験でしょうか。
【写真・左】=十一面観音像(やわらかな微笑をたたえています)
【写真・中】=毘沙門天像(きりりと鼻筋がとおり迫力のある面持ちです)
【写真・右】=毘沙門天像(十一面観音像とは逆に憤怒の表情を浮かべています)
三尊のうち、十一面観音像と毘沙門天像は、一本の材から彫り出し、内刳(うちぐり)を施さないいわゆる一木造(いちぼくづくり)という古い時代の製作技法でつくられていて、平安時代前半11世紀頃(今から約1000年近く前!)の作と考えられます。ちょうどあの紫式部が活躍した時代と重なります。一方、不動明王像は同様の構造ですが、衣の表現などから二像よりやや遅れた12世紀前半頃の造立(ぞうりゅう)とみられます。
観音さまを中尊とし、不動明王像と毘沙門天像を脇侍(わきじ)とする形式は、10世紀末頃に天台宗の総本山、比叡山延暦寺で成立し、その後天台宗のお寺で多く造られますが、今回発見された仏様はこうした天台形式の三尊像のなかでも全国的に見て古く、この形式の地方への広がりを考える上で重要です。また、この三尊像の発見により平安時代前半期の山梨県に天台宗が伝わっていたことが確実になり、県内で天台宗の広がりを示す最も古い事例として山梨の仏教史を考える上でも重要な発見となりました。
さて、この仏像が安置されていた寺部の円通院周辺は、御勅使川扇状地の末端部にあり、扇状地の豊かな伏流水に支えられて原始古代から人々が生きた痕跡が確認できる市内有数の遺跡の集中地帯となっています(2006年10月15日 第80号)。円通院の周辺にはこの仏さまが造られたのと同じ平安時代の遺跡も数多く見つかっています。
【写真】円通院のすぐ近くで発見された平安時代のムラの跡
平安時代、煌(きら)びやかな貴族文化がまず連想されますが、遺跡の発掘調査から、この頃ここに暮らした人々は基本的に地面に穴を掘って作った竪穴住居で生活していたことがわかっています。実際にここに紹介した竪穴住居を残した人も、この観音様に篤い信仰をよせていたのでしょうか。
【写真・左】=発見された平安時代の竪穴住居跡(土に穴を四角形に掘り、壁際にカマドを造っています)
【写真・中】=竪穴住居の復元想像図(最近の研究では、竪穴住居跡の屋根は、茅葺=かやぶき=ではなくこのような「土葺」だったことが明らかになってきています)
【写真・右】=竪穴住居跡から見つかった平安時代の土器
南アルプス市のもう一つの遺跡の集中地帯、百々や上八田、榎原地区。くしくもその中心にある長谷寺(ちょうこくじ:本堂が国重文)にも、平安時代に遡る十一面観音様が安置され、こちらも33年に一度ご開帳の秘仏となっています。古代の篤い観音信仰の広がりを垣間見ることができます。
【写真】=長谷寺の木造十一面観音立像(県指定文化財)
なお、今回の調査では、この三尊像に「虫くい」が進行していることが明らかになりました。このままでは、1000年もの間人々が大切に守り、火災にも耐えた貴重な文化財が朽ち果ててしまいます。早急に「くん蒸」するなどの対応をとりたいと思います。
このように、文化財の調査には、地域に眠る文化財に光を当てるとともに、文化財の状態を把握するという重要な目的もあるのです。
【南アルプス市教育委員会文化財課】