これまでは鎌倉幕府創建の一翼を担った市内甲斐源氏の歴史や、市内に広がる「曽我物語」の世界をお伝えしてきました。今回のふるさとメールでは、鎌倉時代の終わりから室町幕府の成立を経て、南北朝へとつながる時代に焦点をあてます。
さて、山梨の小中学校の修学旅行といえば、小学校なら鎌倉、中学校では京都・奈良が定番のようです。鎌倉なら北条時宗が創建した円覚寺や花寺とも呼ばれる瑞泉寺などが代表的な見学コースのひとつでしょうか。円覚寺には14世紀の初めに鋳造された梵鐘(国宝)をはじめとして、たいへん多くの重要文化財があります。それから、京都ならば嵐山の名刹天竜寺ははずすことのできない見学スポットですね。また、約120種の苔が群生する西芳寺(通称苔寺)も、京の西のはずれにあり、事前の拝観予約が必要であるにもかかわらず、高い人気を誇る寺です。天竜寺も西芳寺も、その庭園は国特別名勝に指定され、かの世界遺産にも登録されています。
南アルプス市からはほど遠い古都の話から入ってしまいましたが、これらの寺院と同じ歴史をもつ寺院が、実は市内にもあるのです。それは市内南部の鮎沢にある「古長禅寺」です。古長禅寺は、円覚寺や天竜寺、西芳寺と同様、臨済宗の僧「夢窓国師」が深く関わった寺院で、その歴史は700年を数えます。それではまず、夢窓国師とはどんな人だったのかを見ていくことにしましょう。
【写真・左】=古長禅寺 本堂
【 〃 ・右】=古長禅寺 門前
◆夢窓国師(夢窓疎石)
夢窓国師は鎌倉時代の健治元年(1275)伊勢国(三重県)に生まれました。ちょうど北九州に蒙古軍が押し寄せた文永の役(1274)の対応に鎌倉幕府が右往左往していた時期にあたります。まだ幼いうちに母方一族の紛争によって甲斐国に移り住み、9歳で出家しました。その後、成長とともに各地を遍歴して禅宗を学び、後に後醍醐天皇に請われて京都南禅寺に住します。翌年には鎌倉幕府執権の北条高時に招かれて鎌倉の円覚寺に住まい瑞泉寺を開創します。鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まると再び京に招かれ、西芳寺などを興しました。新政の崩壊後は、天皇の政敵となった足利尊氏・直義兄弟の帰依を受け、後醍醐天皇の冥福を祈るために創建された天竜寺の開山にもなりました。
以上の略歴を見ておわかりのように、夢窓国師は鎌倉幕府執権北条氏、後醍醐天皇、足利尊氏など、めまぐるしく移り変わる時の最高権力者から尊敬を集めた名僧でした。「国師」というのは高僧に贈られる最高の称号ですが、夢窓国師は生前に三つ、死後に四つの国師号を天皇から贈られ、世に「七朝帝師」と呼ばれました。観応2年(1351)、77歳で入寂します。
◆夢窓国師と古長禅寺
夢窓はたびたび甲斐国を訪れ、恵林寺や清白寺など甲斐国を代表する臨済宗の寺院を創建しました。そして正和2年(1313)、現在の南アルプス市鮎沢の地に長禅寺(※)を開いたと伝えられます。
【写真・左】=木造夢窓国師坐像
【 〃 ・右】=古長善寺のビャクシン
古長禅寺には夢窓国師の坐像(国重要文化財)が納められており、夢想国師の特徴であるという撫で肩が見事に表現されています。この像は、内側に書かれた墨書から延文2年(1357)9月に奈良の仏師行成によって製作されたことがわかっていて、夢窓の7回忌を機に造られたと考えられています。寺の南には夢窓国師が自ら植えたとの伝承が残る4本のビャクシン(国天然記念物)も見られます。
夢窓国師は庭づくりにも優れた才能を発揮しました。瑞泉寺、天竜寺、西芳寺、恵林寺と並び古長禅寺の庭園も夢窓の作庭と伝えられています。門をくぐるとすぐ、草書体の「心」の文字をかたどった心字池が現れます。作庭は禅宗では禅の修行のひとつでした。禅の世界が庭に反映されているのです。池のほとりで静かに佇むと自分の心が水面に映し出されるようです。(池に住む鯉のさざなみで揺れる姿は、この原稿に追われ余裕のない自分の心を写したかのようでした。)
「そうだ、京都に行こう」はJR西日本のCMキャッチコピー。見た人を京都に惹きつけます。もちろん京都や鎌倉は歴史が深く様々な魅力がありますが、市内にも知られざる歴史と多くの隠れた見所があります。メールを読んだ読者の皆様が、「そうだ、南アルプス市を歩こう」と思ってくれるのを祈りつつ、引き続き南アルプス市の歴史とともに隠れた見所を紹介していきます。
※ 創建当時は「長禅寺」です。戦国時代、武田信玄によって甲府に新しく「長禅寺」が創建されたため、後に「古長禅寺」と呼ばれました。
【南アルプス市教育委員会文化財課】