秋山光朝の最期と中野城
甲斐源氏光朝はまた、悲しい伝説に彩られた悲劇の武将としても知られています。
鎌倉幕府の黎明期、全国の源氏とともに、甲斐源氏もまた治承4(1180)年の源頼朝の挙兵に呼応し、平家打倒を目指す勢力の一翼を担いました。
これに対し、幕府成立後は一転、甲斐源氏の強大な軍事力を恐れる頼朝は、自ら政権基盤を固めるため、武田信義、安田義定をはじめとする甲斐源氏のほとんどを次々と謀殺、排除してしまいます。このような中にあって、平重盛の娘を娶(めと)るなど平家と深い関係があった光朝もまた、頼朝から排斥され、鎌倉勢に攻められ、ついには、文治元(1185)年秋、追い詰められた「雨鳴城」で自害したといわれています。
そしてその際、攻め手の鎌倉方の先鋒は弟小笠原長清が務めたとの伝承もあり、頼朝の下で鎌倉幕府の基盤が固められていく中、粛清を免れた加賀美遠光、長清の一党もまた非情な選択を迫られています。
ところで、県道伊那ケ湖線を上っていくと南側に見える城山(1020m)の山頂付近一帯が、古代の城郭「中野城」であったといわれています。中野城は、江戸時代に編さんされた山梨を代表する地誌『甲斐国志』に、「中野ノ城跡 乃チ秋山太郎光朝要害ノ城墟ナリ」とあり、秋山太郎光朝の城であったことが伝えられています。
城山の南東下方に位置する雨鳴山の山頂にも山城の跡があり、そこを光朝の自害した雨鳴城とする説もありますが、地域には中野城址であるこの城山が光朝自害の地であるとの伝承があることや、城山を雨鳴城と呼ぶ場合もあります。さらには『甲斐国志』に「(中野城の)東南ヘ一級下リ馬冷場ト云フ処三面ニ塁ヲ設ク」と記載される施設が、その位置、造りからみて雨鳴山の遺構に比定できることから、最も奥まった高所に立地する中野城こそが光朝終焉(えん)の地であったのかもしれません。
中野城が占地している城山の山頂部は南北に伸びる細長い尾根状を呈し、特にその東側は急峻(しゅん)な崖となっていて人の侵入を阻みます。しかし、この山頂部分には東面の急峻な崩落地形からは想像できない程の平坦地が各所にあります。
山頂の三角点付近には、現在も高さ50cm程の低い土塁が認められ、この土塁が尾根の山道と交わるところに虎口(城の入口)が設けられています。この土塁の内側は、帯状の平坦地となっているほか、山頂域の北側にも広い平坦面があり、有事の逃げこみ場として充分機能したことがうかがえます。
この中野城址、現在は遊歩道が整備され、下の桜池駐車場から20~30分で山頂に登ることができます。6月中旬から下旬には、自生するコアジザイ(ヤマアジサイ)の可憐(れん)な白い花を遊歩道の両側でみることができます。
皆様も一度この歴史にふれる遊歩道を歩いてみてはいかがでしょうか?
場所はこちら。
(写真・左)中野城遊歩道入口
( 〃 中央)城山山頂からの眺望
( 〃 右)中野城遊歩道に咲くコアジサイ
さて、悲劇のドラマを綴(つづ)ることとなったもうひとりの主人公、小笠原長清。
次回は遠光の次男として加賀美を受け継ぐ役割を果たし、源頼朝の信頼を得た武士小笠原長清を紹介します。
長清の優れた武芸は子孫に受け継がれ、その後「小笠原流流鏑馬(やぶさめ)」「小笠原流礼法」として広く知られるところです。
南アルプス市では、毎年アヤメフェアにおいて、小笠原流流鏑馬を見ることができます。今年は4月30日に開催予定です。皆さまも、疾走する人馬の圧倒的迫力に、武士の駆け抜けた鎌倉時代の息吹を感じてみてはいかがでしょうか?
日時:平成19年4月30日(月) 午後1時頃(予定)~
場所:櫛形総合公園内 流鏑馬馬場
【南アルプス市教育委員会文化財課】