「水の世紀」を生きる
「If the wars of this century (20th) were fought over oil, the wars of the next century (21th) will be fought over water.」
「20世紀の戦争が石油をめぐるものであったとすれば、21世紀の戦争は水をめぐるものであろう。」
この言葉は1995年、世界銀行副総裁であったイスマル・セラゲルディン氏が、21世紀は水資源が不足し、それによって紛争が起きることを予想したものです。
残念ながらその言葉通り21世紀は水との関わり方を深く考えなければならない時代となりました。世界人口は2022年11月には80億人を突破する見通しの中、気候変動による干ばつが世界中で増加し水不足が深刻化しており、地域間の争いや紛争がさらに増えることが予想されています。その一方局所的な集中豪雨や台風の巨大化も増加しています。今年の9月、パキスタンの国土1/3が水没するという未曾有の水害に襲われたことも衝撃的なニュースでした。
深刻な水不足と頻発する洪水。国連が掲げるSDGs(持続可能な開発目標)でも解決目標とされている水の問題は、南アルプス市内では実感の湧かない方が多いかもしれません。しかし、干ばつと洪水はかつて南アルプス市域で日常的に起こっていた現象で、いかに洪水を防ぎ、いかに水を引いて豊かな土地とするのか、そのため思考錯誤してきた人々の営みが南アルプス市域の歴史だったと言っても過言ではありません。現代の水問題を考える道標は、足元の歴史に眠っているのです。今回はその道標の一つ、桝形堤防の史跡整備までの歩みを4回にわたりたどって行きます。
【写真】現在の御勅使川扇状地の耕地 砂礫が主体で、雨水が染み込みやすい
【写真】明治29年水害写真 御影村上高砂 多くの村人が復旧活動にあたっている
国指定史跡御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)
南アルプス市には河川堤防である、石積出一~三番堤、六科将棋頭、桝形堤防の3箇所が「御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)」という名称で国の史跡に指定されています。2022年9月時点で国の史跡は全国で1808件指定されていますが、河川の洪水から集落や田畑を守る堤防は3件しか指定されていません。御勅使川の堤防遺跡は日本を代表する治水・利水の遺跡なのです。その中でも南アルプス市有野に位置する桝形堤防は、六科将棋頭とともに江戸時代に開削された徳島堰の水の利水にかかわる堤防で、令和4・5年度整備工事を実施し、一般公開を予定している遺跡です。
【写真】御勅使川の治水
徳島堰と桝形堤防
桝形堤防を知るには寛文11年(1671)に完成した徳島堰を知らなければなりません。御勅使川によって運ばれた砂礫で形成された御勅使川扇状地は、浸透性が高く、御勅使川の水量が少ない上に雨が地下深くまで染み込んでしまうため常襲旱魃地となり、常に水不足に悩まされた地域でした。これを解決するため釜無川から取水し、御勅使川扇状地に通水したのが徳島堰です。徳島堰の開削によって御勅使川扇状地全体ではありませんが、有野、飯野、六科、百々などで水田が増加し、地域社会に大きな変化をもたらしました。
この徳島堰の工事で最も難しかったのは、広大な川幅を持つ御勅使川の横断です。完成当初は板を並べてせき止める工法(板関)でしたが、1700年代には木製の樋を河原の地下に埋める埋樋に変わりました。その一方で六科村や野牛島村は、川幅が広い御勅使川の下流に位置しているため、河原の真ん中で埋樋を一度開口して水門を設け分水しなければなりませんでした。当時御勅使川は洪水の頻発する暴れ川でこの後田水門と呼ばれる分水門を御勅使川の洪水から守っていたのが将棋の駒の形をした桝形堤防です。分水された徳島堰つまり釜無川の水は後田堰を通して六科将棋頭が守る堤内地に導水され、水田が営まれました。
【写真】国指定史跡 桝形堤防
忘れられた桝形堤防
江戸時代から後田水門を守り続けてきた桝形堤防もその役割を終える時がやってきました。川幅が広い御勅使川を現在の川幅まで狭め、河床を階段状に変える床固工が昭和7年から施工され、太平洋戦争後桝形堤防周辺も河原内ではなくなったのです。その後、広大な河川敷が開拓され、県営の施設や工場、住宅が建設されると、桝形堤防は砂防林として植樹されたハリエンジュの木々に覆われ、いつしか堤防の存在も忘れられてしまいました。
桝形堤防の再発見と調査
平成15年4月、旧6町村が合併し南アルプス市が誕生後、南アルプス市教育委員会では遺跡地図が整っていなかった白根地区を3ケ年かけて踏査し、平成18年遺跡分布図を作成しました。この時の踏査によって、桝形堤防が堤防遺跡として南アルプス市の遺跡台帳に正式に登録されました。また、平成20年度からは、桝形堤防の分布調査を開始、まず石積の清掃から始め、少しずつその姿が現れ始めました。
また桝形堤防が守ってきた後田水門は現代まで使い続けられており、その水門にはかつて行われていた水争いの記憶が残されていました。市教育委員会では桝形堤防の存在と地域の水の歴史を知ってもらうため、御勅使川ゆかりの史跡を歩く」ツアーを始め、砂防林と草に覆われた桝形堤防を見学し、水争いを体験した六科地区で昭和3年生まれの矢崎静夫さんの記憶を伝える企画を始めました。
【写真】平成16年 桝形堤防 「御勅使川ゆかりの史跡を歩く」 草木が堤防を覆っていた
【写真】平成21年の桝形堤防 「御勅使川ゆかりの史跡を歩く」
【写真】平成21年の桝形堤防 「御勅使川ゆかりの史跡を歩く」
【写真】平成20年 桝形堤防分布調査
語り部矢崎静夫さんの思い出
「昭和34年台風7号時、韮崎市円野の釜無川の徳島堰の取り入れ口が流され、下流に水が来なくなったさ。水が少なくなると、下流の村の人たちが自分のところへ水を増やすため、上流の六科の水門に蓋をしにやってくる。それじゃ六科に水がいかなくなってしまうので、桝形堤防の上で夜、蚊帳を吊って寝ずの番をしていたけれど、ある時下流の人たちに水門を閉められてしまった。下流から暗渠の中を通って、気づかれないように水門に蓋がされていたさ。なんのための番だと言われたよ。」
このお話をツアーで矢崎さんが語ると、参加者の女性から「私、百々地区ですがおじいちゃんが六科の水門を閉めに行ったと聞いたことがあります!」との声が。
「あの時の犯人がやっとわかった。」と笑いながら話す矢崎さん。参加者の方々からも笑いが起きました。
「それだけ水が尊かった時代だね。」と矢崎さんは昔を思い返していました。
水が来なければ、収穫間近の稲が全滅してしまいます。当時の人々にとっては、まさに生死をかけた水争いだったのでしょう。こうした話は人々の記憶や古文書にも多く記録されています。まさに世界中で起こっている、これから起きる水不足の問題で、これを知恵と技術で乗り越えてきたのが、南アルプス市の人々です。
また矢崎さんによれば、昭和40年代、釜無川右岸土地改良事業によって徳島堰がコンクリート化される以前の後田水門は、次のような構造をしていたそうです。
「徳島堰から六科の水田へ水を引く水門で今は一つですが、昔は大、中、小の四角い水門が三つありました。水がたくさんいる時は全部開けます。いらない時は一つにする。藁束を束ねたボッチョと呼ぶもので蓋をしていました。水門の調整は水中の中に潜っての作業なので、たいへん難しい作業なので、専門の人にお願いしていました。」
この矢崎さんの記憶が発掘調査によって明らかになるのは、それから10年以上後のことになります。
10月号へ続く
参考URL
南アルプス市ふるさとメール
2020年9月15日 開削350年 徳島堰(1)
2020年10月15日 開削350年 徳島堰(2)
南アルプス市広報
2020年 徳島堰350年 1
2020年 徳島堰350年 2
2020年 徳島堰350年 3
2020年 徳島堰350年 4
【南アルプス市教育委員会文化財課】