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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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【連載 今、南アルプスが面白い】

駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅2

 信州と駿河を結ぶ西郡路の要、荊沢宿。今月号は移りゆく荊沢宿の街並みに注目してみます。

1.幕末から明治時代の荊沢宿
 明治3年荊沢村余業(よぎょう)と呼ばれる農間の稼ぎ資料(『甲西町誌』)から、幕末から明治初期の荊沢宿がどんな街並みだったのか、想像しながら歩いてみましょう。

1)荊沢宿さんぽ
 宝永7年(1710)に改修された西郡路の道幅は3間(約5.5m)で、現代の道からするとやや狭い印象です。道の西側には水路が流れています。道を南へ下り、古市場を過ぎると道が曲尺(かねじゃく)のように直角に連続して曲がる「カネンテ」(註1)にたどり着きます(図1)。この辺りから荊沢宿が始まります。宿の中は農村でありながら、さまざまな余業を営む人々の家々が街道の両脇に並んでいます(図2)。一軒一軒は間口が狭く奥行が長い地割で、「うなぎの寝床」に例えられる京の町家に似ています。
 宿中を歩き始めると、ほうきやざるなどを扱う荒物屋や箸や食器を売る小間物屋、穀物屋、桶屋、薬屋などさまざまな種類の店が並んでいます。お腹が空けば食事ができる店もあれば、饅頭や焼き芋、お菓子など今でいうスイーツの店にも出会えます。焼き芋を頬張りながら、店巡り。寒い季節の焼き芋は最高ですね。干物魚屋には鰍沢河岸から運ばれた干物の魚も売っています。歩いてよく目にするのは木綿を扱う家。収穫して種を取り除いた綿を弓でほかす綿打職やその綿を紡いで糸にする篠巻職の家が多いことに気づき、綿栽培が盛んな土地柄が感じられます。造酒屋さんも2軒見つけました。お酒は夜にとっておきましょう。酒屋ではお醤油やお酢も売られています。あちら側には豆腐屋さんもあります。
 宿場をゆっくり散策していると櫛形山に日が入り始めました。前から焙烙(ほうろく)の担ぎ売りと甘酒の担ぎ売りが歩いてきます。この際甘酒もいただきましょう。前方の家からは心地よいリズムを刻む金属音が響いてきました。音を刻むのは農具などを治している鍛冶屋さん。髪結いをしている家も数件ありました。さて、日も暮れてきました。銭湯で一風呂浴びてから今夜は荊沢に一泊することにしました。旅籠は3軒、どこに泊まろうかな。

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【図1】江戸時代末の土地割

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【図2】明治3年荊沢村余業概念図


2)職種別余業について
 明治3年の荊沢宿の余業を西郡路の東西で北から順にならべたのが図2で、職種別にまとめたのがグラフ1になります。
 最も多い木綿関係は綿打業8、篠巻業2、綿仲買・綿商2、篠巻小売1計13で全99戸中約13%を占めています。『甲斐国志』で「奈古白布ト云ハ木綿ノ好キ処ナリ」と書かれているほど東西南湖やにしごおりは県内有数の綿の産地で知られ、荊沢宿でそれに関係した職が多いのも頷けます。西郡路に注目すると、旅籠3、飲食店4、銭湯2が営まれていて、近隣の一般的な村々と異なっていることがわかります。菓子屋7と多いのも街道沿いの特徴の一つでしょう。一服した旅人の楽しみの一つだったと想像できます。造酒屋は2軒、宝永2年(1705)の村明細帳にはすでに酒屋が4軒挙げられていますから、伝統的に酒造りが行われていたと言えます。気になるのは宝永2年で48人もいた塩や糀を売り歩く糀売りが記録されていません。生活様式の変化や酒造・醤油・酢造稼の店で売られていたことが考えられます。

 

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【グラフ1】明治3年荊沢村余業を職種別にまとめたグラフ


2.古市場、荊沢宿で出店を構えた近江商人の馬場家
 江戸時代から明治時代にかけて、古市場と荊沢宿には近江商人(滋賀県出身の商人)の馬場家も店を構えていました。宇佐美英機氏の研究(註2)によれば、近江商人の馬場利左衛門は、宝暦年間(1751-1764)のころから薬種類の旅商いを始め、甲州西郡筋には年に2、3回訪れ、古市場村を旅宿にしていました。その後寛政10年(1798)、古市場村の周六から屋敷の半分を借りて出店し、荒物や小間物類、呉服の卸売を始めます。天保6年(1835)ごろには、分家の利助に出店が譲られました。弘化4年(1847)年立ち退きを命じられたため、荊沢村の豪農市川文蔵(註3)が古市場に所有する土地を借りて商いが続けられました。
 馬場家は京都麩屋町四条上る枡屋町に仕入店を構えており、上方(京都や大阪)で仕入れた商品を古市場の出店で販売するネットワークが形成されていたと言えます。明治初年に古市場村の出店は閉じられましたが、明治3年の史料「身元立直証文」の宛先「甲州巨摩郡荊沢宿」に「利輔出店」とあり、荊沢村に新たな店が設けられました(註2)。近江商人にとって継続して出店を構えるほど荊沢宿周辺が重要な商圏であったことがわかります。
 では馬場家は荊沢宿のどの辺に出店を構えたのでしょうか。幕末の荊沢宿絵図には「利助(輔)」の名は書かれていませんが、上宿に馬場家に見られた「利左エ門」の名が見えます(図1)。明治3年余業調べでは馬場家の扱っていた商品の荒物や小間物を扱う店は上宿に位置しています。「利左エ門」が馬場家を意味するかは不明で正確な場所は特定できませんが、古市場に近い荊沢宿の土地に新たな出店を構えたのかもしれません。


3.市川家の江戸四谷町家経営
 古市場の所有地を近江商人馬場家に貸し出していた荊沢村の豪農市川文蔵。近年、市川家が江戸の四谷などに土地を所有し町屋の経営を行っていたことが、東京都埋蔵文化財センターによる四谷一丁目の発掘調査と文献調査によって明らかとなってきました(註4・5)。市川家は明和3年(1766)に麹町6丁目を始めとして、四谷塩町一丁目、赤坂裏伝馬町二丁目などの土地を購入し、町屋敷を経営していました。その目的は町屋からの収入よりも穀類や銭など江戸の相場情報を家守りから得ることだったと推測されています。

 こうして見ると江戸時代の荊沢宿は駿河と信州だけでなく、市川家や馬場家を軸に江戸や上方と広域のネットワークで結ばれ、物資だけでなく最新の情報ももたらされていたと言えるでしょう。


4.大正末期の街並み
 大正時代末ごろの荊沢宿の街並みを地元の方が書き記した地図があります(第3図)。それを手掛かりに明治3年からの大正時代末期までの街並みの移り変わりを見ていきましょう。
 まず明治3年から継続して営まれているのは、荒物屋、酒造屋、菓子屋、焼き芋屋、桶屋、大工、紺屋、銭湯などです。一方明治3年から大きく変化したのは木綿関係で、10あった綿打屋がなくなり、座繰屋2だけとなりました。明治中頃安価な外国産綿が輸入され、山梨県内の木綿生産は急速に衰退した状況が街並みにも反映されています。
 次に文明開花から西洋化が進んだ大正時代、技術や生活様式の変化に注目してみましょう。髪結から床屋へ、提灯屋からランプ屋や電球交換へ、飲食店にはバーが登場し、洋品を扱う雑貨屋も始められました。さらに江戸時代や明治初期にはなかった新たな商いも始められています。新しい材のセメント屋、自転車屋、車力、ラジオ屋まで登場しました。特に自転車は大正時代急速に発展した行商の足として欠かせないものでした。ラジオは大正14年(1925)から新たなメディアとして放送が開始され、一般への普及はやや遅れることから、この地図に書かれたラジオ屋は昭和初期のものかもしれません。また、郵便局も設置されています。明治7年7月1日荊沢郵便御用取扱所(明治8年荊沢郵便局に改称)が設立され、紆余曲折ありながら、荊沢郵便局に続いていきます。市川文蔵家では明治に入り市川銀行が設立されました。また娯楽施設も新たに作られました。大正初期、塩沢安重は父が営んだ酒造の広大な跡地を利用して東落合の新津隆一、西落合の深沢富三とともに芝居小屋「旭座」を設立しました。旭座では芝居や活動写真(無声映画)が上演され、西郡を代表する娯楽施設の一つとなったと言われます。

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【図3】大正末〜昭和初期の街並み

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【写真】荊沢宿で江戸時代?から昭和まで桶屋を営んでいた仙洞田家には今も味噌や漬物などに使われた桶が残されている。かつては県内各地の酒蔵の樽の製作と補修も行なっていた。

 

おわりに
 時代が移り、技術が発達し、交通網が変わり、生活様式も変化し、荊沢宿はその姿を変えてきました。街並みは時代を写す鏡と言えるかもしれません。現在の荊沢宿の商店は以前と比べ少なくなっていますが、コミュニティースペースやカフェなどが作られ、さまざまな人々が集う新たな荊沢宿も生まれつつあるようです。
 

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【写真】荊沢「くらんく」では、定期的に芝居やコンサート、学習会などが開かれている

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【写真】荊沢「くらんく」でのクラッシックコンサート

 

註1 連載 今、南アルプスが面白い2018年9月14日 (金) 何気ない街角に歴史あり(その5) 旧荊沢宿の「かねんて」

註2 宇佐美英 1998 「馬場利左衛門家の出店と「出世証文」」 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要第31号

註3 荊沢宿の市川家当主は代々市川文蔵を名乗った。

註4 東京都埋蔵文化財センター 2020 『新宿区四谷一丁目遺跡-東京都市計画四谷駅前地区第一種市街地再開発事業に伴う調査-』東京都埋蔵文化財センター調査報告第350集

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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