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南アルプス市は、山梨日日新聞社とタイアップして「南アルプス市ふるさとメール」を発信しています。ふるさとの最新情報や観光情報、山梨日日新聞に掲載された市に関係する記事などをサイトに掲載し、さらに会員登録者にはダイジェスト版メールもお届けします。お楽しみください!

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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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【連載 今、南アルプスが面白い】

信州松本城と南アルプス市をつなぐ二つの物語

 神無月。今年の10月は30度を記録する夏のような日もありましたが、木々の葉は少しずつ淡朽葉(うすくちば)や黄丹(おうに)、柿色に染まり、ようやく秋の深まりを感じられるようになりました。コロナ感染が拡大する中、市内の小学校では修学旅行のコースを定番の鎌倉や東京から長野県へ変更する学校が多くなっています。今回のふるさとメールでは、信州を代表する名所、国宝松本城と南アルプス市とを結ぶ二つの物語についてご紹介します。

 

1.国宝松本城

 松本城は長野県松本盆地の複合扇状地上に造られた平城です。扇状地の扇端に造られたため、城下町を歩くとあちこちで湧水に出会うことができます。南アルプス市で場所を例えるなら、御勅使川扇状地扇端に立地し水が湧出する若草地区の加賀美付近でしょうか。その豊かな湧水は堀の水に利用され、常に清らかな水で満たされています。

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【写真】城下町で出会う湧水

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【写真】松本城堀の水

 松本城といえば白漆喰の白壁と黒漆が塗られた板、そして茶、灰色の濃淡で彩られた土台の石垣の織りなすコントラスト、借景となっている北アルプスの美しさに目を奪われます。全国でも天守が残る城は12しかありません。天守は一番高い大天守を始め、月見櫓(やぐら)など5棟の建物が組み合わさっており、文化財の最高峰国宝に指定されています。城好きな人々はもちろん、さまざまな人々を惹きつける著名な観光地となっています。さて、この松本城、南アルプス市といったいどんな関係があるのでしょうか。

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2.甲斐源氏と松本城

 松本城は戦国時代、小笠原氏が建てた深志城が始まりと言われています。小笠原氏は、南アルプス市加賀美に居を構えた加賀美遠光の次男、長清を祖とします。長清は原小笠原荘(南アルプス市小笠原)を所領としていました。治承・寿永の乱ではいち早く源頼朝に従い、鎌倉幕府を支える有力な御家人となっています。弓馬術に優れ、『武田系図』によれば、武田信光らとともに弓馬の四天王に数えられました。長清の子孫は弓馬故実の指導的立場となり、室町時代に小笠原流礼法が整えられました。また南北朝時代、小笠原氏は甲斐から信濃へ拠点を移し、信濃国守護となります。戦国時代、松本市周辺は小笠原氏の勢力下にありました。

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【写真】遠光・長清父子像(開善寺蔵)加賀美遠光(上)と小笠原長清(下)

 その小笠原氏を攻め、深志城を手に入れたのが同じ甲斐源氏である武田家当主の晴信、後の信玄です。晴信は越後の上杉氏攻略の拠点としても深志城の整備を行ったと考えられています。武田家滅亡後、深志城は再び小笠原氏の貞慶(さだよし)が奪還します。そしてこの貞慶が深志を松本に改称しました。「松本」という地名にも甲斐源氏がかかわっていたのです。国宝となっている天守などの建造物は安土桃山時代、石川数正親子が整備したとされていますが、松本城の歴史の始まりは小笠原氏、武田氏など甲斐源氏が礎を築いたのです。

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【写真】松本城内各所に小笠原氏の家紋三階菱の灯篭が飾られている

 

3.太平洋戦争後の文化財保護の物語 八田山長谷寺と松本城をつなぐ人々

 江戸から明治へ時代が移ると松本城に危機が訪れます。城としての必要性が失われたため、民間へ売却され破却されることが決定しました。これを覆したのが地元の人々です。城を買い戻し、保存会を立ち上げ、募金を募り、荒廃した天守の修復事業が明治時代に行われました。
 昭和に入ると昭和5年(1930)には史跡指定をうけ、昭和11年国宝に指定されるなど、法的に文化財としての価値が認められます。太平洋戦争時、日本各地の城郭がアメリカ軍の空襲によって失われて行く中で、幸運にも松本城は戦火を免れました。
 太平洋戦争後荒廃した松本城の修復事業を進めたのは、奇しくも日本を占領した連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)民間情報教育局(CIE)で、文化財保護や美術について行政指導を行なっていた美術記念物課のチャールズ・F・ギャラガーが松本城に昭和21年秋に訪れました(註1)。ギャラガーは太平洋戦争中に日本語を学び、戦後1946年に来日、アジア全般の芸術について学んでいたわけではありませんでしたが、「a quick learner(物覚えの早い人)」と呼ばれたように高い学習能力があったと考えられます。ギャラガーが戦後日本全国の文化財を視察し、修復事業の指導を行なっていたのです(註2)。
 昭和21年10月、ちょうど松本城視察の前後、ギャラガーは現南アルプス市榎原の八田山長谷寺を視察しています。長谷寺も当時国宝に指定されていましたが、戦前から荒廃し、戦中から地元の人々の熱意によって解体修理事業が計画されてきました。松本城に対し早急に修復するよう勧告したと同様に、長谷寺本堂にも早急な修理が勧告なされ、昭和22年度法隆寺と並び戦後初の国庫補助事業として本堂解体修理が認められました。この長谷寺本堂の調査や解体修理を監督したのが文部省技官の大岡實と乾兼松です。とりわけ大岡實は長谷寺と法隆寺の修復事業を監督するだけでなく、同時期に松本城の修復の調査も行なっています。長谷寺の小暮君易さん(故人)は大岡が長谷寺に宿泊した後、松本城や法隆寺へ向かい指導していたこの時の様子をはっきりと覚えておられました(註3)。

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【写真】長谷寺本堂解体修理

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【写真】大岡實博士

 長谷寺本堂の解体修理が完成し行われた落慶式の昭和25年3月18日から約3ヶ月後の同年6月8日、松本城の修復工事の起工式が行われました。敗戦から復興を目指す中で行われた長谷寺と松本城の修復事業は戦後文化財保護の第一歩となりました。それが可能になったのは、文部省技官、GHQ、そして地域の人々の文化財への想いが結ばれたからでしょう。

 

 秋の深まりとともに南アルプス市甲斐源氏の祖である加賀美遠光の館跡、法善寺境内や長谷寺の木々も色づき始めています。北アルプスを背景にした信州松本の紅葉も見事です。コロナ禍終息後、二つの物語に想いを馳せながらそれぞれの地を旅してみてはいかがでしょうか。

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【写真】八田山長谷寺

註1 国宝松本城のホームページ

註2 MONUMENTS MEN FUNDATION のホームページ(ブラウザChrome、Edgeで閲覧できます)

註3
今、南アルプスが面白い 2018年1月15日 (月)
文化財を守る地域の力~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語~

今、南アルプスが面白い 2018年2月15日 (木)
文化財を守る地域の力~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語その2~

南アルプス市広報 2016年1月号
昭和20年代長谷寺本堂解体修理と法隆寺金堂焼損~二つの国宝をめぐる物語~

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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