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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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【連載 今、南アルプスが面白い】

明治29年大水害 その2

 7月号では明治29年9月に起きた水害の中で、御勅使川と釜無川左岸の被災状況をみてきました。この水害では現在の南アルプス市内域だけで大和川、滝沢川、堰ノ川、秋山川などいくつもの河川でも洪水が発生しています。しかし、これらの河川の被害状況は、主要な記録や各町村誌でも詳しく取り上げられていません。そこで水害後まとめられた公式な結果とは異なる部分もありますが、当時の新聞記事からこれらの河川の水害の実態にせまってみたいと思います。

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【図】明治29 年水害状況図(南アルプス市教育委員会文化財課作成)

 

明治29年当時の村の状況:()内の村が合併して成立
源 村(有野村・塩前村・大嵐村・須沢村・駒場村・築山村+曲輪田新田と飯野新田)
榊 村(曲輪田村・上宮地村・高尾村・平岡村)
明穂村(小笠原村・桃園村・山寺村)
落合村(塚原村、湯沢村、秋山村、川上村、落合村)
五明村(荊沢村・大師村・清水村・宮沢村・戸田村)
南湖村(田島村・和泉村・西南湖村・東南湖村・高田新田)

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【図】大正時代山梨県地図(大正10 年『山梨県統計書』より)

 

※以下(山日)は山梨日日新聞、(甲府)は甲府新聞を意味する。

1.諸河川流域の被害状況
1)大和川
 源村内の大和川堤防3箇所150間が決壊しました(山日9月16日)。この大和川とは桃園で合流する堰尻川と考えられ、主に曲輪田新田地区の堤防が決壊したことになります。一方榊村の曲輪田地区から流れる大和川の本流では、粘土が用いられ強固な堤防と考えられていた大和川第一番堤が決壊し、曲輪田に大きな被害が出ました(山日9月18日)。さらに下流の明穂村内では堤防8箇所が決壊、中でも桃園地区では堤防が3箇所決壊しました。対岸の榊村上宮地地区では大和川右岸(新聞では瀧澤川と表記)の堤防が200間決壊し、1町歩の畑が流失、二反歩が浸水し、大きな被害を被りました(山日9月16日)。

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【図】大和川周辺破堤状況

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【写真】現在の大和川(桃園・上宮地)(南から)

 

2)滝沢川(瀧澤川)
 大和川と深沢川が合流した滝沢川は多くの地点で堤防が決壊し、明穂村、大井村、南湖村、五明村に甚大な被害をもたらしました。明穂村小笠原地区では一の堤防が30間決壊し、県道が浸水、床下浸水約100戸に及びました(山日9月16日)。下流の大井村江原地区では9月11日に堤防が40間決壊し30戸が浸水(山日9月17日)、この洪水流は下流の五明村戸田地区を飲み込み、全96戸中92戸が浸水しました(9月20日)。大井村江原地区の対岸、三恵村十日市場地区の堤防も20間決壊し、その水流は南湖村東南湖地区まで押し寄せました。南湖村では滝沢川の堤防が40間、狐川の堤防が60間、さらに滝沢川の別の堤防35間が決壊し、南湖村和泉地区の田畑150町が浸水しました(山日9月16日)。加えて滝沢川と狐川が合流する和泉地区の堤防が破壊され、濁流は南湖村の耕地に集まり、ひとつの大きな湖のようだったと新聞に記されています(山日9月20日)。さらに釜無川の増水によって滞留した洪水流は排水されず、9月8日には釜無川の逆流水が和泉地区に流れこみました(『甲西町誌』)。

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【写真】滝沢川周辺破堤状況

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【写真】現在の滝沢川(小笠原)(東南から)=左写真=、現在の狐川、左は滝沢川(和泉)(北から)

 

3)坪川・秋山川
 9月8日落合村地内で坪川(市之瀬川)が東落合地内にて東側に決壊、濁流が入り込み田はほとんど砂礫に埋まったといいます(『甲西町誌』)。また、9月11日には秋山川と堰野川の樋門上で決壊し、釜無川への排水ができない状況を伝える電報が落合村役場から発せられています(山日9月11日)。このように落合村では坪川や堰野川、秋山川の堤防が決壊し上流から洪水流が流れ下るとともに、いくつもの河川が合流する南端では釜無川へ排水できず、下流から逆流した洪水流によっても被災しています。落合村字芦原では水田25町歩、畑50町歩、家屋10戸が浸水の被害を受けました(山日9月16日)。また、坪川の下流五明村字土尻及び字稗田でもそれぞれ一か所決壊しています(山日9月20日)。

 なお、落合の河川立体交差については、以前の記事をご参照ください。
2009年6月15日 (月) 南アルプス市と天井川 その2 ~河川の立体交差~

 

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【写真】現在の秋山川(秋山)(西から)=左写真=、現在の坪川(落合)(南から)

 
2.水害現場の状況
 これまで見てきた明治29年9月の水害時、人々はどのような行動をとったのか、その状況を新聞記事から追ってみました。

 1)破堤前の水防活動
 堤防の決壊は田畑だけでなく家屋や人々の生活、命までも奪う危険性を伴うもので、村の存亡にもつながる非常事態でした。特に9月上旬は稲刈り目前で、水防の成否が1年間の収穫の有無を決定します。そのため、堤防を守る水防活動には関係する多くの人々が集まりました。特に御勅使川扇状地全体を守っていた石積出を有する源村有野地区の水防には約1600人もの人々が集まったとの記事があります(山日9月17日)。

「御勅使川決堤 中巨摩郡御勅使川增水五六尺に及仝郡源村へ切込んとするより日々水防人夫千五六百人にて防御したるも其効なく遂に矢崎孝太郎氏家屋の裏手より切れ込み千俵地以上の田を流失したり」(山日日新聞 9月17日)

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【写真】石積出三番(有野)

2007年12月29日 (土) 御勅使川扇状地の生命線 石積出

 

 同時に対岸の龍王でも二番堤破堤の危険から多くの人が堤防の決壊を防ぐ活動を行なっています。

 「釜無川二番堤の危険 中巨摩郡龍王村部内釜無川の一番堤を防御し居る中 昨日午前に至り二番堤防危険となり玉幡龍王の両村内警鐘を乱打して各戸人民の出張を促し水防に尽力せり」(山梨日日新聞 9月11日)

 では堤防の決壊を防ぐためにどのような水防活動がおこなわれたのでしょうか。堤防が洪水流によって削られた場所を保護するため、木を伐採し紐で堤防に固定し欠損した場所に流す「木流し」が行われ、また丸太を組み重しとして竹で編んだ籠に石を放り込んだ蛇籠を乗せた「聖牛」が作られました。蛇籠はそれ自体でも堤防の欠けた場所を補強するために使われました。そのほか大量の土俵が作られ、堤体の補強に使われました。驚くのはそれぞれ使われた量です。今諏訪村二番堤の水防では木は数百本、土俵は幾千と見積もられています。さらに明穂村一村だけで伐採された樹木は三千数百本に及んだとの記事もあります。懸命な水防活動が行われましたが、龍王村では二番堤がついに決壊してしまいました。

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【図】木流し

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【写真】復元された聖牛。竹蛇籠が乗せられている

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【写真】昭和57 年台風10 号 芦安での木流し

竹蛇籠 ~現代に残る伝統の治水の技術~ 2009年1月 1日 (木)

 

「十二日、釜無の激流は益々烈しく改修堤危険なるより、八幡各村の人民は数百名、出でて水防に従事したり、石を運ぶもの、木を切るもの、之を投ずるもの、之を●をするもの宛然之れ戦勇兵の工兵隊に興たり、夜に入りて各所に燃せし篝火は水に映し、(中略)雨は又たまた降出せり、十一時十二時に至りては、怒々猛烈を加え来り、夜は暗し響は凄まし、(中略)、全力を注いて奔騒せる村民も今は労れ果たり、されども尤も大切なるの際なり、白雨黒雨襟を束ねる如くにして、激流に怒つて改修堤を破れり、「切れたきれた」の聲は凄然として諸人の耳朶に達せり、今迄で働き切つたる人足も此一斗に力を失ひぬ、歎聲を発して茫然たる間に見る見るみずは汎濫暴張して一面の湖水を現せり」(甲府新聞 9月15日)

「聞く明穂村一村にて水防に費消せし金額のみにても五百余円に及び且つ當日激流に投入せん為め伐採したる樹木は三千百餘本に達し之に被害損金を加ふれば實に巨額に至る」(甲府新聞 9月26日)

  豪雨の中、樹木を伐採し、人力で運び、紐で固定して濁流の中へ流す。竹の籠を編み石を運んで投げ入れる。大量の土を運び土俵を作り、堤防を補強する。また記事には現れませんが、数日間に及ぶ水防活動では大量の食料も必要となるため、女性を中心とした炊き出し、必要な物資の搬入作業も行われていたのでしょう。ここで水害後甲府新聞記者が現地を歩き取材した今諏訪村の鬼気迫る水防活動の様子を参照してみます。

 「二番堤に至る、大木は幾百株となく伐採して河邊に投じ、土俵は幾千となく羅列しあり、而して向邊直下釜無の溢流滔々として至り一大河を現し急瀧弄騰、出水當時の状を追思せしむ(中略)聞く當時田之岡村改修堤の危急を告ぐるや、今諏訪を初め鏡中條等村民は総出にて必死を極めて水防に従事し大木を運び土俵を作る 在らゆる手段を盡したるも遂に其効なく見る見る中に怒濤は堤防を決壊して浸水し来るより数百千の村民はソレと云ひ様取つて返にしニ番堤に於いて之を喰ひ止めんものと再び玄に群集し労れし身体をも厭わず必死となつて盡瘁せり、猛雨は尚ほ烈しく雷鳴さえ加わりて怒れる濤は突き至りと衝き来り、斯くすること一周日餘、村民は聲を枯らし身を痛め最早一言を發するを得す一歩も進むを得さるに至れり、殊に改修堤は前面にのみ力を用ひ後方は之に比して力を用ゆる極めて少、故に釜無川の田之岡附を破りて改修堤を伝へて突激するや改修堤は漸次崩壊して遂に七十九間を破るに至れり 村民の之を防かんとするに當りうの力を極めたる實に驚くべき程にしてニ番堤も数百千人の必死となりて防禦するにも開せず漸次崩壊して早や既に一尺餘に及ひたるの所数ヶ所ありて怒濤は之か上を超ゆるに至りて村民は或は到底ダメなりと思ひしかとも盡せる丈けい盡さんものと愈々勇を奮つて奔馳し漸にして之を無事に保つを得たるは誠に感すべきことなり」(甲府新聞 9月27日)

  こうした豪雨や雷雨の中行わる水防活動はまさに命がけで、行方不明者や死者も報告されています。

 「同上午前九時急報 (龍王)二番堤欠潰の際居合わせたる人十二名行方不明となれり」(山日日新聞 9月13日)

 「水防人足の溺死 中巨摩郡百田村にて御勅使川の水防に従事したる男一名溺死したり」(山日日新聞 9月16日)

 

2)村々の対立
 非常時には多くの人々が協力するとともに、利害が対立する村々の争いも先鋭化しました。各村が自分の村の堤防を守るため右岸と左岸、上流と下流とで争いが起きたのです。

 「水防に就いて喧嘩 中巨摩郡三恵村々民と大井村民、明穂村民と三恵村は水防に就て争論を始て不穏の色ありしも警官の説諭にて平穏に帰せり」
(山梨日日新聞 9月16日)

「小笠原は従前より水災を被らさりし地なるに這般の出水に際して、瀧澤川は暴漲して里俗一の出しと称す處より欠潰して遂に其の七分を浸し現に警察分署の在る所は本瀬となりて水の深さ八尺余に達したりど、それのみならず水防の際各村互に自村の堤防を守らんとして向岸と喧噪し囂々(ごうごう)、囂々石を投じ竹槍を弄し殺気紛々恰も百姓一揆の起りたる如き観あり」(甲府新聞 9月26日)

 さらに釜無川、瀧澤川、坪川、秋山川や狐川など多くの河川が合流する下流の地域ではその排水が村々にとって死活問題でした。この水害では排水に苦しむ五明村と南湖村両村の村人合わせて1700人が睨み合う自体が起きました。警察の説得にも応じず、騒動の一歩手前で小林収税長がとりなし、代表者同士の話し合いで解決されましたが、記事からは当時の緊迫感が伝わってきます。排水の解決策として故意に堤防を決壊させ、排水する方法がとられていたことも注目されます。

「五明南湖の両村排水論
一昨十三日正午頃中巨摩郡五明村と仝郡南湖村人民との間に南湖村東南湖組地内通称瀧澤川の排水に関し粉擾(※1)を醸したる顛末を聞くに両村共同川の水防に附互に警鐘を打汚名鳴らして呼び集め五明村よりは九百餘人南湖村よりは六百人南巨摩郡増穂村大椚組よりは貳百人各自水防用の道具を手にして現場に馳せ付け 今や血雨を降らして一大修羅場を現さんとする處へ 恰(あた)かも好し龍王警察所長浅尾警部部下の巡査を引率して駆け着き 双方へ対し説諭を加えたれども 容易に聞き入る気色なく 動(やや)もすれば争闘に及ばんする有様なるより 水害検分とて其近地へ来れる小林収税長へ此事を急告し 各村人民をして各代表者なるものを出さしめ 腕力沙汰の無法なることを説明し 結局双方陳述するところを聞取り 同所の堤塘深さ三尺長さ三間を欠潰して排水せしむる事とし 辛ふじて無事に鎮静せしめたりと 故らに堤塘を欠潰せしむる理由は五明村荊澤戸田宮澤の三組浸水家屋が何時までも浮かび出づる能はざるを以て堤塘を欠潰し滞水を放蕩するなり 其代り水防費用五拾圓と欠潰費用右三組にて支辨する契約を為し夫れにて事済みとなりたりといふ。」(山梨日日新聞 9月15日)
※1 ふんじょう・・・紛争のこと

 

3)水害後の復旧
 水害後分断された地域の復旧では分断された地域との連絡のため、鉄線を渡し樹に結び人や物を運ぶ「コブ渡し」と呼ばれる方法がとられました。鉄線を対岸に渡すには濁流を渡る必要があり、これも命がけの作業でした。

 「茲に於いて鐵線を渡し兩々大樹に緊縛し、之に又た鉄線を釣下け人をして之に腰を掛けしめ、此方に於いて之れを引く宛絶昔時のコブ渡しなり、鐵線一たび切れんか乃ち身は激流に陥没して死生を必ずべからず危険又た●し、第一先に渡りしは彼の新海茶太郎氏にしてそれより人々相次いて来り、兩者の連絡を通するを得たり」(甲府新聞 9月15日)

 浸水した復旧活動には事前に用意されていた舟が活用され、食料などの物資が運搬されました。

 「五明其他 戸田、宮澤、荊澤等はいづれも床上二三尺の上に達し 昨日は大に減じたるも尚は床上にあり舟を以って食物を運搬しつつありと云ふ」(甲府新聞9月16日)

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【写真】水害時使用された舟 長泉寺(荊沢)

 

3.水害後の学び
 明治29年9月水害後、甲府新聞では9月29日から10月3日までの「見聞餘録」で水害の原因や今後の対策を検証しています。水害の原因の一つとされたのは明治20~27年に行われた堤防改修事業の脆弱さと改修堤完成による事前水防の怠りです。改修事業は7年の歳月と多額の予算が使われ、「金城鉄壁」と考えられていました。
とりわけ信玄堤では明治20~27年の堤防改修時、「出し」である龍王二番堤が下流の出しと接続され連続堤に改修されていました。しかし、この豪雨では釜無川の改修された堤防の多くは決壊し、信玄堤は出しの二番堤が破堤、信玄堤本堤を衝いた水流はこれまで釜無川にもどる仕組みでしたが、その出口を塞いでいたため水が溢れ、信玄堤が決壊したと考えられました。「見聞餘録」の総括ではどんな堅牢な堤防でも永久的なものでなく、事前の十分な水防準備の必要性を説いています。また各堤防での懸命な水防には敬意を払いつつ、自村のみ守って他を顧みない姿勢も改めるべきだと述べています。
 さらに龍王の信玄堤破堤については、御勅使川上流の氾濫により前御勅使川の堤防が決壊して西側から釜無川に合流した洪水もその原因の一つと考えられました。つまり御勅使川の治水が釜無川左岸の治水にとって極めて重要であることが指摘されているのです。この地理的状況は現代でも変わっていません。かつて前御勅使川であった現在の県道甲斐芦安線へ洪水流が流れた場合、洪水流は信玄堤に真横から衝突することとなります。

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【図】明治時代 信玄堤の変遷(南アルプス市教育委員会文化財課作成)

 

 現代の水防は地域住民が直接携わる機会は少なくなっています。しかし、125年前の記録は、堤防が破堤する不測の事態を想定し、水害の知識や情報を学び、避難ルートや場所を確認しておく事前の防災活動と地区や市町村を超えた地域間の協力体制の重要性を私たちに伝えてくれています。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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