はじめに
雨が降り続き、水辺にカエルの鳴き声がこだまする水無月(みなづき)。水田に水が満たされる月を意味します。ふるさと文化伝承館の藍は雨の恵を受けながら、瑞々しく茂っています。例年だと梅雨明けを待って藍葉の一番刈りを行いますが、気候が暖かくなったせいか昨秋こぼれ落ちた種は2月に芽吹き、6月中旬には葉が生い茂りました。30度を超えた晴天の日を狙って、一月早い一番刈りを行いました。
【写真】水無月の水田
【写真】ふるさと文化伝承館の藍
【写真】藍一番刈り
【写真】藍一番刈り 天日干し
藍色は7月に予定されている東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムカラーであり、大河ドラマの主人公渋沢栄一の家がすくも作りを行なっていた藍屋でもあったことから、さまざまなメディアで藍色に出会う機会が増えています。
明治時代、南アルプス市域が山梨県内で藍葉の生産量最多を誇り、川上村(明治22年に合併して落合村となる)には藍葉からすくもを作る藍屋が営まれていたことは以前ご紹介しました。今回のふるさとメールでは少し時を遡り、江戸時代の藍葉生産の様子をのぞいてみましょう。
【2019年9月17日(火) 南アルプスブルーの歩み~藍色の広がり~】
1.村明細帳から見た藍の栽培
江戸時代には村の石高や家数、人数、寺社や産物など村の概要を記した村明細帳が作られました。村明細帳は作られた時代や村によってその内容や詳しさが変わるため村の正確な状況を反映しているとは限りませんが、おおよその傾向を把握することができます。今回は山梨県が発行した『村明細帳 巨摩郡編Ⅲ ・山梨、八代郡編補遺』と旧町村誌に掲載された村明細帳を手がかりに、まず南アルプス市域の藍の生産について調べてみました。
その結果、近世において藍葉が村明細帳に掲載された事例は2例に限られました。一番古い資料は享保20年(1735)の「鋳物師屋村差出明細帳」で、臨時の作物として藺草(いぐさ)や茶、苧、桑、楮(こうぞ)、うるしとともに藍が挙げられていました。次に明和8年(1771)の「上高砂村差出明細帳」で、やはり臨時の作物として、藺草や茅、茶、煙草、苧、桑、楮(こうぞ)とともに藍が挙げられています。このように藍葉は米や粟、稗、大豆などの主要作物とは違い、江戸中期にはあくまで臨時に作られる補助的な作物だったことがわかります。そのため、栽培されていても村明細帳には記載されなかった場合もあると考えられます。
幕末まで時代を降ると、藍の栽培や藍を商う商人の存在を文献で確認することができます。百々の竹内家に伝わる嘉永7年(1854)の「藍商売取究」(『白根町誌史料編』544号文書)は、藍を扱う商売仲間が公正に商いを行うため、御法度を守り、藍の買い付けには仲間が立ち会うことなど商売仲間内での取り決めが書かれたものです。また、慶応4年(1867)原七郷組合から市川代官所へ提出された書類には「藍葉凡千貫目」と記載があり、原七郷の村々で藍葉生産が広がっていたと考えられます(『櫛形町誌』)。
2.藍葉・藍玉の流通
江戸時代は、木綿の普及とともに紺屋による藍染が盛んになったと言われます。ですが村明細帳から地元での藍葉生産量はそれほど多くなかったと推測されます。そこで他地域からもたらされた藍の流通に注目してみましょう。駿河と信州を結ぶ街道に位置する荊沢宿は、富士川舟運で鰍沢河岸(かし)で荷揚げされた駿河からの物資が最初に通過する駅です。この駅を通過する商品について研究された増田廣實氏によれば、嘉永7年(1854)の荊沢宿から韮崎宿への宿継ぎ荷物、いわゆる上り荷物の総数は1,573駄で、その内、1位が阿波藍で80駄、2位が武州藍で38駄、二つで全体の荷物の約26%を占めています(増田廣實2005『商品流通と駄賃稼ぎ』同成社)。すくも作りの本場である阿波と武州から相当数の藍玉あるいは藍葉が流通し、釜無川沿岸の村々の紺屋へ販売されました。さらに安永4年(1775)の「荊沢宿伝馬諸荷物駄賃帳」には「一 藍玉壱太 百々村江」とあり、馬一駄分の藍玉が百々村の紺屋へ届けられていたことがわかります。
【写真】伊能図に描かれた荊沢宿と鰍沢
藍玉産地の阿波国側の史料を見ると、藍を販売する商人とその販売地が決められており、甲州売りを抜き出しても20人以上の商人の名が連ねられています。
文久6年(1809)「関東売仲間御仕入元江戸出店売場」(抜粋 人命俵印及び売り場先を届け出た資料)
「元木佐太郎 池北屋清兵衛
江戸 武州 相州 上総 下総 野州 上州 常陸 信州 甲州 駿州 遠州 奥州
武市増助 宮本屋安兵衛
武州 相州 上総 下総 甲斐 常陸
渡邊益蔵 藍屋彌兵衛
江戸 武州 上総 下総 房州 上州 常州 野州 相州津久井領 甲州
永田平十郎 住吉屋圓次郎
武蔵 相州 上野 下野 上総 下総 安房 常陸 甲斐 駿河 伊豆
坂東貞兵衛 住吉屋宗兵衛
武州 相州 豆州 甲州 信州 駿州 下総 上野 下野
元木佐太郎 阿波屋與市
駿州 甲州 郡内領 豆州 遠州 相州
手塚甚右衞門 阿波屋林右衛門
遠州 駿州 豆州 甲州郡内 相州
犬伏九郎右衛門 玉屋八郎兵衛
江戸 甲州郡内領 相州津久井領 下総 上総 上州
井上左馬之助 坂東増太郎 坂東貞兵衞 石原市郎右衛門 藍屋直四郎
駿河 遠州 相州 豆州 甲州 信州」
(西野嘉右衞門編著1940『阿波藍沿革史』より)
こうした史料から、江戸時代、市内域の紺屋で消費される藍染の原料すくもや藍玉は、藍の一大産地であった阿波や渋沢栄一が藍屋を営んでいた武州から富士川舟運を経て荊沢宿を通り、南アルプス市域から韮崎市、北杜市近郊の紺屋に供給されていたと考えられるでしょう。
3.江戸時代の紺屋と藍屋
紺屋については、甲西町誌などで江戸時代からほとんどの村にあったと書かれていますが、「紺屋」が村明細帳に記載されるのは、明和8年(1771)鏡中條村2人、安永6年(1777)荊沢村1人などに限られます。江戸時代の藍染を担った紺屋についての史料が少なく、その分布や実態も明らかにすべき課題の一つです。
甲府城下町に目をむければ、嘉永7年(1854)刊行、明治5年(1872)増補改訂版の甲府城下町の案内書『甲府買物独案内』には、紺屋に当たる御染物屋が6軒、すくもの販売と製造にかかわる藍屋が2軒掲載されています。
【写真】『職人盡繪詞 第1軸』文化年間のものを明治に和田音五郎が模写したもの。 右側に「紺屋」が描かれている。国立国会図書館蔵
【写真】買物独案内 御染物
【写真】買物独案内 御染物
【写真】買物独案内 藍屋
(『甲府買物独案内』 国立国会図書館蔵)
4.明治時代初頭の物産記録
最後に明治時代初頭に記録された村々の物産記録から幕末から明治初頭の藍葉生産をみていきます。それを見ると多くの村々で藍葉が生産されていることがわかります。白根地区と甲西地区での栽培が盛んで、白根地区では源村での生産が多く2,500貫、甲西地区では落合村が4,900斗で他の村より藍葉生産が盛んでした。落合村と隣接する川上村には江戸時代末からすくも作りを生業とする浅野家が位置していて、その周辺が藍葉およびすくも生産の拠点となっていくことがわかります。
【第1表】明治時代初期 南アルプス市域各村物産一覧(文化財課作成)
※芦安・八田地区については未確認。白根町・櫛形町・若草町・甲西町各町誌掲載の資料から作成
おわりに
以前のふるさとメールで書いたとおり、明治時代に市内で発展した藍葉生産と藍屋業は、ヨーロッパでの人工染料の発明と普及により明治時代末期には姿を消すことになりました。それからおよそ100年後、市内で再び復活した藍は、地域や小学校のふるさと教育に利用されています。全国では藍染だけでなく、藍の含有する成分の研究が進み、健康食品やウイルス予防などに応用され日本全国で藍の魅力が再発見されつつあります。市内で栽培され始めた藍にもさまざまな可能性が眠っているようです。
【写真】落合小3年生が今年も浅野さんの藍畑で地域たんけん(藍染は顆粒の藍を用いた簡易的な方法で染めました)
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【南アルプス市教育委員会文化財課】