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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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【連載 今、南アルプスが面白い】

整然としたまちなみ ~市内にひろがる条里型の地割~

 先月紹介した迷宮のような鏡中条地区とは対照的に、市内には路地が等間隔に、碁盤の目状に交差する整然としたまちなみが、みられるエリアがあります。

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【図】条里型の地割が見られる場所

 このような土地割は、むかしの単位でいうところの1町四方、現在の単位でおよそ109mの間隔で区画されており、一般的に、条里型の地割と呼ばれています。
 市内にみられる条里型の地割りについては、かつて(平成18年12月)紹介したこともありますが、今回改めてご紹介します。

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【写真】どこまでもまっすぐに伸びるまちなみ

 このような碁盤の目状の地割は、いまも全国各地に遺されているのですが、市域では、加賀美を中心に藤田、鮎沢、古市場、大師といった、滝沢川がつくった扇状地上の地区に認められ、真北からやや東に主軸をとって施工されています。

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【図】条里型の地割の分布

 このエリアは、北から迫る御勅使川扇状地の伏流水が湧き出すエリアで、その豊かな水資源に支えられ、遥か2000年以上前(弥生時代)からの水田の営みが連綿と、かつ濃密に認められることが発掘調査によって明らかにされています。

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【写真】現代の水田の下に弥生時代の水田が眠る(向河原遺跡)

 条里型の地割りは、このような地形的特徴の上に施工された、かつての農業基盤整備の痕跡ともいえます。その施工時期については、必ずしも明確ではありませんが、発掘調査の結果、10~13世紀頃とみられる水田において、現在と同様の軸を意識して作出された可能性のある畦畔が見つかった二本柳遺跡の成果などから、中世の鎌倉時代、さらには平安時代(10世紀頃)にまでさかのぼる可能性が指摘されています。

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【写真】二本柳遺跡

 直進方向は見通しが良いものの、市街地では、見通しの悪い交差点が続くこととなり、ともすれば危険な、このような街角は、実はむかしの人々が自然と対峙した労力の結晶であったことがわかります。

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【写真】現代の見通しの悪い交差点

 なお、この地割は現在、滝沢川などの河川の影響からか、中央部が消失し、東西に分断されているほか、藤田地区などその分布の東辺も、やはり釜無川の氾濫などの影響によって消失したものと見受けられます。

 しかし、藤田地内においては戦後、地域の人々の手によって、新たに耕地整理(土地改良事業)が行われ、現在整然とした区画がとり戻されています。この藤田地区土地改良事業は、総面積212ha。昭和28年から実に12年をかけて、昭和40年に竣工しましたが、当時は、ほとんどが地域住民の手による人力の施工だったそうです。

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【写真】土地改良前の様子

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【写真】土地改良を担った人々

 いつの世も、生きる糧となる農業の基盤整備は、人々の関心事だったことでしょう。
戦後、藤田地区で行われた耕地整理は、かつての条里地割の基軸線を活かして施行されており、ここでは、かつての条里地割と、いわば現代の条里地割である耕地整理とを千年の時を経て、隣り合って見ることができます。

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【写真】現在の藤田地区の耕地

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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