甲斐源氏加賀美遠光の子で小笠原家の始祖長清が本拠とし、名字とした地、南アルプス市小笠原。今号では、小笠原流として知られる小笠原家の歩みと、その一族が育んだ礼儀作法の世界を覗いてみましょう。
はじめに
全国へと展開する甲斐源氏の一族は、新羅三郎義光、そして甲斐源氏の血筋であるということを誇りに、その家風を代々子孫に受け継いでゆきました。その様子は甲斐源氏の代名詞ともいえる弓馬の術に顕著顕といえます。たとえば、東北の南部藩主直伝として受け継がれてきた武芸「加賀美流騎馬打毬(青森県指定文化財)」からは、その名が示すように南部家の由緒が稲見アルプス市加賀美にあることを重んじる様子が伺えます。
また、甲斐源氏の家伝が加賀美遠光を経て、小笠原長清、そして代々小笠原家へと受け継がれ、育まれていったものが「小笠原流礼法」とされ、武家の礼儀作法として世に知られることとなり、やがては現代日本の生活文化の根底に根ざしてゆくこととなったのです。
「小笠原流礼法」は、現在小笠原流礼法を教授している小笠原家を称する二派の言葉を借りますと、「武士が社会生活を円滑にするために作られ、受け継がれてきたもの」であり、「日常の行動として役に立ち、無駄なく、他から見て美しくある」ものと言えそうです。
今号では、主に小笠原家の祖とされる小笠原長清についてとその後の武家故実を担うこととなる小笠原流の展開について簡単に整理してみたいと思います。
小笠原流の成立については、これまで中世史の研究者である二木氏などにより、近世の家系譜にみられる将軍家への師範に関する記述などは信濃小笠原家への権威付けとみられる仮託であることが指摘されている。また、中世末の信濃小笠原家の故実家としての活動については村石氏の論考に詳しく、参照されたい。
小笠原長清と名字の地「原小笠原荘」
小笠原家は加賀美遠光の次男長清が、原小笠原荘(南アルプス市小笠原)を本拠とし、小笠原を称したことに始まるとされます。
『吾妻鏡』などには長清は父遠光とともにたびたび登場し、中でも、元暦二年(一一八五)の頼朝から範頼へ宛てた書状や、東大寺の再建にかかる多聞天の寄進に関する記述など、頼朝の身近な存在であったことがうかがえます。
【写真】加賀美遠光・小笠原長清父子像(開善寺蔵)
長清は、現在の南アルプス市小笠原の小笠原小学校付近に館を構えたとされ、当地には現在も「御所庭(ごしょのにわ)」や「的場」の地名が残されています。『甲斐国志』には「御所ノ庭」について「村ノ西ニ在り松樹鬱蒼方四十間許リノ間地ナリ相伝フ小笠原長清居宅ノ南庭」とあります。
父遠光は自身が館を構えた加賀美を拠点に、交通の要所となる釜無川・富士川流域に一族を配置しました。また周囲には、中世八田牧の存在が知られますが、百々・上八田遺跡の調査により、古代よりウマの飼育が行われていたことが判明しており、彼らの強力な軍事力や武芸を支えていたと指摘されています。
【写真】小笠原小学校の校舎には鎌倉武士の射芸のオスが描かれている。
時代は下りますが、永徳三年(一三八三)の「小笠原長基自筆譲状」には、信濃小笠原家の長基が全国の十九もの所領を分割して相続する様子が記されています。筆頭に「原小笠原荘」を挙げ、さらに「惣領職」と注記されていることから、原小笠原荘が小笠原家の「名字の地」として一族の惣領のみに代々継承されてきた特別な場所であることがわかります。
二つの小笠原
山梨県内には「小笠原」という地名は北杜市(旧明野村)にもあり、中世の史料にも「山小笠原荘」「原小笠原荘」とふたつの小笠原が登場します。では、それぞれどちらなのかと言いますと、応永年間(1394~1428年)の史料に「山小笠原荘内朝尾郷」とみられることから、朝尾郷が北杜市浅尾を指すと考えられ、必然的に「原小笠原荘」は南アルプス市を指すと考えられているのです。
その裏付けとまでは言えませんが、南アルプス市内の古代・中世の遺跡からは複数の「狩俣鏃(かりまたぞく」」が出土しています。狩俣鏃とは武芸の修練時に使用する先端が二股にわかれた鏃で、主に流鏑馬や巻狩などで使用されたものです。
特に『甲斐名勝志』に「小笠原に柿平と云所有小笠原大膳大夫長清舘の跡也と云伝、、、」とある柿平地区の一の出し遺跡や、加賀美・小笠原に掛る流鏑馬の奉納が行われていた伝承がある寺部の神部神社に近接する寺部村附第6遺跡からも出土している点は、何らかの関連を示しているようで大変興味深いです。
小笠原流の展開
では、「小笠原流礼法」と呼ばれる礼儀作法の歩みを概観してみましょう。
加賀美遠光の子小笠原長清より始まる小笠原家は、旧来より清和源氏に伝わるとされる「糾方(=弓馬故実または弓法)」を代々惣領が受け継ぎ、長清以降「流鏑馬」など弓馬儀礼の際の射手として名を連ねるなど弓馬に堪能な家柄として活躍しています。
信濃守護となる「信濃小笠原家」(一般的にこの系統が惣領家とされます)から分出した「京都小笠原家」と呼ばれる系統により、室町時代の中頃には将軍家の弓馬故実の師範家として定着しています。近世の家系譜には長清が頼朝の師範であったなど、将軍家への師範に関する記述が多くみられますが、これらを事実とみなすことは現在のところ難しいと言え、江戸時代における信濃小笠原家への権威付けとして書き加えられた可能性があります。そのため、現在のところ確実に将軍家の師範であったことが示せるのは室町時代の中頃と言えるのです。
室町時代に「礼法」
概ね室町期に「弓」・「御(馬)」の法に「礼」が加えられて三法からなる「礼法」が整えられたとされ、弓馬術のみならず婚礼など儀礼の作法や教養としても展開してゆきます。戦国期には武田家に破れ深志城を離れながらも故実の集成・伝授を積極的に行った信濃小笠原家の長時やその子貞慶の頃に、小笠原家の故実に、同じく故実家として知られる伊勢家や今川家などの故実を取込んで中世武家の礼法を大成していったとみられています。
信濃小笠原家は戦国期には糾方の断絶を避けるために「一子相伝」を解き、近親の分流や有力家臣にも積極的に伝授しました。貞慶の時に再び深志城へ戻ることができ、江戸時代になると明石藩主、さらには小倉藩主となって幕末を迎えることとなります。
一方江戸では京都小笠原家の系統の「縫殿助家」と、室町期に赤沢家であった「平兵衛家」の二つの分流によって、旗本として幕府の武家故実師範となります。この頃将軍家など一部の武家だけでなく広く躾や教養として礼法が求められ、水嶋卜也に代表されます小笠原家以外の民間の諸礼法家などによっても広く小笠原流礼法の名が浸透してゆきます。水嶋は、小笠原貞慶から礼法を伝授された小池貞成の孫弟子で、江戸で「水嶋流」として活動しましたが、弟子3千名ともいわれるとても広範な活動の中で、やがて弟子たちにより小笠原流礼法として展開していくこととなってしまうのです。
身の回りにある
明治期に入り、平兵衛家により小笠原流礼法は学校教育に取り入れられ、一層小笠原流の名が庶民に浸透してゆきますが、同時に形式ばかりが先行し堅苦しいものという誤解が広まったと言われてもいます。しかし、元々礼法はその時代の社会活動に応じて変化してきたものと言えますので、戦争という時代にそのような要請があったのかもしれません。とは言え、冠婚葬祭や生活のマナーなどとして現在の日本の生活文化の根底に根ざしているのも事実です。小笠原流礼法は立ち居振る舞いを基本としているとされますが、冠婚葬祭の際の包み(ご祝儀袋やお香典袋など)や神社などで見られる紐結びの数々なども小笠原流礼法と言え、私たちの身の回りに今もあるのです。
戦後の小笠原流礼法の継承は、礼法の本質を普及する活動へと変わり今日に至っていると言えます。これも戦後日本の社会の要請と言えるでしょう。
信濃小笠原家に伝わる伝書を紐解くと度々「時宜によるべし」という言葉に出会います。現代風に言い換えるならばT・P・Oにあわせよととらえることができ、まさに現代にも通じます。甲斐源氏の家風は時代を越えて私たちに語りかけてくれるようです。また、どのような動作にも意味があり、その点を理解することに重きが置かれている観があります。これは小笠原流礼法の神髄が「相手を思いやる心」であり、それを体現した形が立ち居振る舞いということなのです。
【写真】折形のひとつで、鶴のお祝い包み
おわりに
小笠原家の「名字の地」である南アルプス市では、現在、「小笠原長清公顕彰会」により、小笠原流礼法や、惣領家とされる小倉藩相伝の小笠原流流鏑馬(3年前より休止中)などを通して小笠原家ならびに甲斐源氏の伝統を未来へと継承する取り組みがなされています。南アルプス市が「相手を思いやる心」を育んだ一族の発祥の地であるなんて、なんて誇らしいことでしょうか。
おもてなしのまちとしての南アルプス市の未来が見えてきそうです。
【写真】南アルプス市で行われている流鏑馬の様子
【写真】小笠原長清公顕彰会による小笠原流礼法講座の様子
【南アルプス市教育委員会文化財課】