早いもので平成30年もあと半月となりました。皆様の平成30年はいかがでしたでしょうか?
南アルプス市文化財課では、年の瀬となる12月1日に新たなスタートを切った事業があります。「ふるさと〇〇博物館(ふるさとまるまるはくぶつかん)」のウェブサイトの公開です。
このサイトについてはいずれ詳しくご紹介しますが、この公開日である12月1日に、公開記念の「○博さんぽ」を実施しました。その時におよそ50年ぶりに南アルプス市中野地区に里帰りした昔懐かしいオート三輪についてご紹介します。
【写真】中野の棚田を走るオート三輪
人と人がつながる
「ふるさと〇〇博物館」では、国指定文化財のようなすでにお墨付きを与えられているものや大きな事件ばかりでなく、私たちが普通に見聞きしている「コト」や「モノ」を大切に紡いでいこうと取り組んでいます。個人や家族のヒストリーをつなぎ合わせると、地域のヒストリーが見えてきて、それらをまたつなげるとさらに大きな町全体のヒストリーが見えてくると考えているのです。今回ご紹介する物語はまさにそれです。旧櫛形町にあたる中野地区の日常に活躍した「モノ」をとりまく物語。
今夏、「ふるさと○○博物館」について紹介する講座を開いた翌日のこと、参加者の一人から近所のエピソードとして情報提供の電話がありました。それは、昔懐かしいオート三輪のこと。しかも、あの有名な映画「三丁目の夕日」にも登場したオート三輪が中野地区にあったものだというお話だったのです。
三菱「レオ」
そのオート三輪の元々の持ち主は中野地区出身の山王さん。現在は神奈川県に在住で年に数ヶ月は中野地区へ戻り畑仕事などをされています。ちょうどそのタイミングにお会いし、オート三輪について聞き取り調査を行いました。
オート三輪というと有名なのはダイハツの「ミゼット」。大々的に広告も打たれ、ベストセラーとなったもので、昭和32年(1957)から昭和47年(1072)まで大量に生産され、人気を博しました。
しかし山王さんの写真を拝見すると、そのオート三輪は三菱「レオ」。昭和34年に発売されわずか3年余りしか製造されなかった希少価値のある車で、現存するのは10台に満たないと言われています。
実はこのオート三輪、現在は山王さんが所有しているわけではなく、別の方が所有されています。
「レオ」の思い出~ファミリーヒストリーが地域のヒストリーに
この「レオ」、山王さんが中学生のころに父親が購入してきたそうで(何年生だったかは不明、昭和34~36年頃とみられる)、中学生だった山王さんは、「俺のおもちゃがやってきたぞ」と思ったそうです。
山王さんの暮らす中野地区の宮ノ前集落は、「中野の棚田」のすぐ下にあり、当時は水田の他に麦や養蚕も盛んで、桑の葉や麦を運ぶのに牛車や大八車、良くてテーラー(農機具)などを使用していたようですが、「もう牛馬の時代じゃない」と父親がオート三輪を導入したようです。近所の方の記憶でも、中野地区で初めてオート三輪を取り入れたのがこの「レオ」のようです。今では田畑で当たり前にみる軽トラックのハシリと言え、言わば、この地において農業の変革を物語る一台と言えるのです。
山王さんが大学生になる時に、布団や机などを下宿先に運ぶのにこの「レオ」で甲府駅まで運んだそうです。その先は当時国鉄駅にあった「チッキ」で運んだこともお話ししてくださいました。
その後大学生の間に「レオ」は山王家から手放されたようですので、昭和40年(1965)前後のことと思われます。その後この「レオ」が誰の手に渡ったかなどを知る人はいませんでした。
【動画】「〇博アーカイブ」で山王さんが思い出を語る様子を視聴することができます。ここをクリックして下さい。上のアイコンが解説、下のアイコンが動画
もうひとつのファミリーヒストリー
南アルプス市とは何の縁もない松葉さんは東京の渋谷区生まれ、神奈川県育ち。元々父親が輪業店を営んでおり「レオ」も販売していたようです。販売した「レオ」が廃車されるのがもったいなく、引き取り隣の空き地に置いていたため、松葉さんの幼少時代は常にその「レオ」が遊び場だったようです。そのため、松葉さんにとってオート三輪と言えば「レオ」だったようです。
松葉さんはそのような環境からかレトロな車の魅力にはまり、さまざまなレトロ車を所有します。元々台数の少ない「レオ」を所有することはまず不可能と諦めかけていたそうでしたが、とうとう平成19年(2007)、念願がかない「レオ」をレトロ車好きな仲間から貰い受けるのです。そしてなんと自ら修理を施し、車検を通して、現役として公道を走れるようにするのです。とても貴重な車といえます。
三丁目の夕日に登場
修理された貴重な「レオ」は様々なイベントに出向き、雑誌の表紙を飾るなど話題になります。そんな中人気映画「ALWAYS三丁目の夕日’64」にも登場することとなりました。堀北真希さん演じるロクちゃんが結婚する回ですが、その冒頭で「鈴木オート」内で修理されている車として登場しているのです。
松葉さんは当時の姿を残すことに意味があると考え、不要な修理や改変を行っておらず、ほとんどが当時のまま残っています。そのようなところも評価を得ているところです。実は、そのおかげで、この「レオ」は元の持ち主を探し出すことができたのです。なんとこの「レオ」、荷箱の背面に「山王/櫛形町中野」と書かれているのです。
【写真】荷箱の文字と現在のナンバープレート
レオがつなぐ人
今から8年ほど前、山王さんがお盆で里帰りをしていると、少し出かけていた隙に訪問者があったようで、置手紙が戸に挟まれていたのです。その手紙を書いた方こそが、現在「レオ」を所有する松葉さんだったのです。松葉さんは荷箱の記載から、当時の持ち主を探してみようと思い立ち、2度目に訪れた時、手紙を挟み、それを読んだ山王さんと無事中野の地で出会うことができたのです。この時は別の車で伺っているようです。
その後「レオ」と山王さんが50年以上ぶりに対面するのはお互いの現在の居住地である神奈川県でのことで、座席に座り、すぐに当時の記憶が戻ったそうです。
松葉さんと山王さんは、いつか南アルプス市の中野地区に里帰りをさせたいねと確認し合うのでした。
山王さんに、当時の「レオ」の写真がないか尋ねましたが、芳しい返事はありませんでした。でも、ふるさと○○博物館の調査では良くあることですが、たまたま意図していないものが写りこんだ写真というのは以外と多く、それが当時の暮らしぶりを雄弁に物語ることも往々にしてあるものです。
後日山王家のアルバムをめくり調べていると懐かしい写真の数々がきちんと整理されていました。4・5冊目をめくっている時、家族の集合写真の奥の方にかすかに「レオ」の姿を見つけることができました。さらにめくると、アップで撮られている「レオ」の写真もありました。このように、アルバムの中の写真は、改めてみることで、その家族にとっても再発見があるものなのです。
【写真】山王家の家族写真と後ろにたまたま写りこんだ「レオ」荷箱の文字が一致していることがわかります
【写真】レオとともに
「レオ」50年ぶりに中野を走る
12月1日、ふるさと○○博物館のウェブサイト公開を記念してのまち歩きイベント「〇博さんぽ」を実施しました。何気ない風景の中にその地域の小さなヒストリーを紡ぐ散歩です。
せっかくですので、松葉さんのご協力のもと「レオ」に里帰りしてもらうこととしました。
昭和12年からある旧野之瀬郵便局の傍らで参加者を出迎えたり、富士山を背に中野の棚田を走ったり。
「レオ」にとっては、初めて購入されて仕事に生活に活躍していた地である中野地区で、実に約50年ぶりに走ったのです。
富士を背に棚田にたたずむ「レオ」は当時の姿を彷彿させ、地元からの参加者には涙ぐむ方もいました。きっと「レオ」自身も涙目だったことでしょう。
【写真】旧野之瀬郵便局と「レオ」
【写真】「レオ」を取り囲むイベント参加者
【写真】中野の棚田で富士とともに
ファミリーヒストリーを紡ぐ
イベント終了後も、中野の風景の中に佇むレオを地元の方が囲み、さながら撮影大会のような時間が流れました。
行き交う地元の方が皆足を止め、懐かしそうにレオに触れます。中には、この「レオ」の当時の雄姿を覚えてらっしゃる方もいました。また、当時自動車の販売店に勤めてらした方もいて、当時のオート三輪の思い出を語り始める方もいました。
不思議なものでして、この「レオ」は山王さんや松葉さんだけのものではなかったようです。地域のみなさんにとっても当時の記憶を呼び起こす、共有できる思い出だったのです。別の方のファミリーヒストリーが繋がり、この地域の歴史がみえてくるのだと思います。
【写真】中野地内で地元の方に囲まれる「レオ」
今回は、中野地区にあったオート三輪「レオ」を通して、「ふるさと○○博物館」の取り組みの一端をご紹介しました。
希少価値のあるオート三輪が現存し大切にされているだけでも貴重なことですが、それだけでなく、この車が、当時の中野地区の農業に自動車を導入するという変革をもたらす皮切りであったことや、この車が地域の思い出を呼び起こす呼水になったこと、さらには、人と人が繋がることでこの「レオ」がこの地に戻ってくることができたこと、これらこそが価値があることなのだと考えます。
きっと、そんなエピソードを綴れる「モノ」や「コト」がどの地域にもあるはずで、「ふるさと〇〇博物館」では、こういったことを大切に紡いでいこうと考えています。
【南アルプス市教育委員会文化財課】