写真1は、宮沢地区上村小路(わでむらこうじ)の道祖神。この地方では特別珍しいこともない自然石を利用した道祖神さんです。しかしそこに刻まれた碑文は、我々に宮沢地区苦難の歴史を教えてくれます。
【写真1】宮沢上村小路道祖神
前回、天井川囲まれた地域の苦肉の策として、川の下にトンネルを掘って水を抜く樋門の存在を紹介しました。宮沢地区と隣の戸田地区は、西に坪川、東に滝沢川の両天井川に囲まれ、前回ご紹介した五明樋門を利用して排水を行っています。この樋門なくして、これら地区の排水はままならず、地域にとって樋門は必要不可欠なものでした。
ただ、平時はこれでよいのですが、降水量が増え、排水先の河川の水位が上がると、より低い土地を求め、この樋門を氾濫水が逆流してきてしまいます。アジア太平洋戦争後、排水機場(※注1)が整備される前は、排水に不可欠な樋門を閉じることはできず、逆流による氾濫はしかたないものとして甘受するしかありませんでした=(図1、写真2)。
【図1】逆流する理由と排水機場の役割(クリックするとアニメーションで見ることができます)
【写真2】逆流洪水の様子。下流から遡ってきた氾濫水が宮沢地区に迫ります。向こう側には滝沢川による「川の壁」。写真は、昭和34年(1959)伊勢湾台風の時のもの。移転していなければ、宮沢、戸田の両集落は、この時も完全に水没していました
江戸時代、天井川に囲まれた地域の排水問題を解決するために設けられた樋門でしたが、天井川化が止まらない以上、合流先の河川と集落との標高差は次第に大きくなって行き、これにより逆流洪水の被害も年々増大していきました。近代になり、宮沢地区村と戸田地区は、ついにその被害に耐え切れなくなって村の移転を決断することになります=(図2)。
【図2】地図に見る村の移転(クリックするとアニメーションで見ることができます)
宮沢地区は明治31年(1898)の釜無川の水害を契機に翌三十二年から四十二年にかけて、土地の低いそれまでの場所(現在の甲西工業団地北側)から、順次北側の清水地内に移転しました。隣接する戸田も同様に、明治四十年代に順次現在の地に移転していきました。実際図2に示すように、明治期と昭和期の地図を比べると、戸田・宮沢の両地区が集落ごと北側に移動していることがわかります。明治三十二年に移転先に新たにまつられた宮沢上小路の道祖神。十年後の明治四十二年に作られたその台座の側面には流転の歴史が刻まれました=(写真3)。
【写真3】道祖神の脇に刻まれた碑文
意訳すれば「もとの宮沢区は、地面が低く、水害が多かったので、明治32年、地区の人々が協力して、(移住先の地主)塩澤氏に相談し今の場所に移住した。上村小路は昔のような心配に戻ることがなくなり、まことに良いことだ」となります。
現在も宮沢、戸田地区の大部分の方が居住する場所は、住所としては南アルプス清水になります。平成になって甲西バイパス(中部横断道)建設などに伴って、旧宮沢村の一部で発掘調査が行われ、かつてのここに暮らした人々の痕跡が、当たり前ですが数多く発見されました。その遺物は、ふるさと文化伝承館(現在は改修工事のため閉館中)でも展示されています。なんだ、こんなのウチにもありそう・・・な遺物ですが、これら遺物の存在が、かつてそこに村があったこと、そしてそこに生きた人々が災害を克服して力強く生きた歴史を我々に教えてくれます=(写真4)。
【写真4】宮沢中村遺跡出土遺物(ふるさと文化伝承館)
訪ねてみたい方のために・・・・
宮沢地区の上村小路道祖神は、国道52号線(甲西バイパス)甲西中学校東交差点の北東(住所南アルプス市古市場8番地付近)にあります。
※注1 排水機場 逆流を防ぐため、樋門を閉じるようになると、樋門の上流側に降った雨水が排出できなくなるので、この水を川へくみ出す施設が必要となる。これが排水機場。施設の中ではポンプが稼動して、堤内地側の水を川へ排出する。詳しくは、2009年6月15日号を参照。
【南アルプス市教育委員会文化財課】