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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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【連載 今、南アルプスが面白い】

俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(二)

 前回、御勅使川扇状地上の干ばつ地帯へのアプローチのひとつとして、江戸時代の寛文10年(1670)に開削された「徳島堰(とくしませぎ)」があり、これにより多くの水田が拓かれ新しい村が生まれた一方で、その水は広大な砂礫の大地全体を潤すには至らなかったことを記しました。しかし徳島堰の水が利用できた地域でも、雨が少なければその量は必ずしも十分ではなく、しばしば村同士の水の奪い合いも起こっています。
 
 有野地区にある桝形(ますがた)堤防は、北側の韮崎市域から御勅使川を暗渠(トンネル)構造で横断して南アルプス市域に導かれる徳島堰の水を、御勅使川の河道内で六科地区に分ける目的で設けられた分水点を守るV字形の堤防です=写真1、写真2。全国的にもユニークな施設として、同じ御勅使川旧堤防の「石積出(いしつみだし)」、「将棋頭(しょうぎがしら)」とともに国指定の文化財になっています。実はその調査の際、堤防上の石が一部方形にはぎ取られていることが分かり、地域での聞き取りの結果、それがより多くの水を下流に流すために、御勅使川を横断する暗渠を潜ってこの分水口を塞ぎにくる下流の村の人々に対する見張り小屋を設置するためだったことが明らかになっています。ただでさえ少ない水を守るために、そこで夜中水番をしたのだというのです=写真3。 

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【写真1】桝形堤防

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【写真2】桝形堤防の仕組み

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【写真3】見張り小屋跡からの眺めとその思い出を語る語り部

 
 水番の莚の上の晴夜かな
 
 一方で、扇状地を伏流した水が湧き出す扇端部は、豊かな水に恵まれるだけではなく、水田地帯(田方)と畑作地帯(原方)の接点として、交流の場ともなりました。そこには山岳地帯の山方(やまかた)、山麓地帯の根方(ねかた)の人々も集まり、それぞれのエリアの産物が交換されました。その名残が現在も毎年2月10、11日に、この田方と原方の境界線である県道韮崎甲斐中央線で開かれている「十日市」です。その起源は少なくとも戦国時代にさかのぼることが明らかにされています。この市の成り立ちもまた、御勅使川扇状地の田方、原方という自然環境が必然的に生み出したものであることが分かります。

 十日市では昔から、ないものは「猫の卵」と「馬の角」といわれ、あらゆるものが売買されてきましたが、中でもよく知られているのが、現在の富士川町平林など、根方や山方でつくられる臼や杵、はしごなどの木製品でした=写真4。

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【写真4】十日市の風景


 臼売が木の香はらひてゐる寒さ
 きさらぎの麓よく見え梯子市
 
 御勅使川へのアプローチは、近代になっても続き、昭和初期になると、養蚕の盛行に伴って、それまで集落と集落を隔てていた椚林や松林がことごとく伐採され、一面の桑畑となりました。この大開拓に伴う景観の劇的な変化は、明治、昭和の地図を比べてみるとよくわかります。そしてこの時開墾された桑畑が、戦後スプリンクラーによる灌漑の導入で、一斉に果樹園に転換していくのです=図1。

 この地域の民謡「西郡盆唄」に、「木綿たばこでならした里が庭の先から桑の海」の一節がありますが、これはまさにこのような状況を唄ったものなのです。

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【図1】クリックすると、明治21年、昭和4年、平成15年の土地の利用状況をアニメーションで見ることができます。地図の色分けは、緑=椚林・松林、茶色=畑、黄緑=桑畑、ピンク色=果樹園

 
 
 枯れはてて隣部落の墓見ゆる
 
 はるか遠くまで見通せる御勅使川扇状地上の雄大な景観は、実は地域の人々の御勅使川扇状地への働きかけの結果、昭和初期以降につくられたものだったのです。

 その障害物のない広大な平坦地であった御勅使川扇状地には、アジア太平洋戦争末期に「ロタコ」の暗号名で呼ばれた陸軍の秘密飛行場を中心とする施設群が造られました。そして現在も痕跡を残すその滑走路は、まっすぐに八ヶ岳に向かって伸びています=写真5。これは偶然ではなく、横風を嫌う飛行機の離着陸に対し、冬季の強烈な季節風「八ヶ岳颪(やつがたけおろし)」を意識したものでした。

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【写真5】八ヶ岳に向かって真っすぐ伸びる滑走路跡

 
 岳おろし首捥ぎとらる六地蔵
 眠る田に三日つづきの嶽颪
 
 はるか八ヶ岳から御勅使川扇状地に吹き降ろす凍てついた、そして時に数日にわたって吹きすさぶ八ヶ岳颪。その遮るもののない強烈な風に、市域に生きた人々は苦しめられ続けてきました。しかし実は一方で、その風がなければ原方地域の特産であった「さわし柿(干し柿)」の甘味は生まれないのです=写真6。

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【写真6】冬の風待つさわし柿

 
 
 夕陽より山の風待つ百目柿
 
 南アルプス市域に立つと、本当に八ヶ岳まで遮るものがなにもないことが分かります。我々は、そこから吹き降ろす冷たい「八ヶ岳颪」から逃れることはできません。しかし一方で厳しい風土は、強靭な人間性の醸成には欠かせない要素なのかもしれません。

 甲子雄が生きた原方地域以外でも、田方は豊かな水田の恵みを得られる一方、常襲洪水地帯として、根方、山方は日本有数の土石流地帯として人々を苦しめ、やはり人々は様々な工夫でそれを切り開いてきました。すべては、もろく崩れやすい急峻な山地とそこを流下する河川の営為。そこで醸成されたのが南アルプス市(西郡)の風土です。
 
 私たちは、福田甲子雄の俳句を通じ、1000年を超える先人の飽くなき開拓志向を見ることができます。そしてその先人のたゆまぬ努力の上に、現在の南アルプス市の豊穣は生み出されているのです=写真7。

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【写真7】1000年のアプローチの最終回答「果樹栽培」

 
 
 袋より紅はみだして桃熟るる
 
 南アルプス市立図書館に併設された「ふるさと人物室」。平成30年4月21日からはじまる第4回展示は「俳人福田甲子雄×風土」です。こちらもぜひご覧ください。(おわり)
 
 
※本稿は、福田甲子雄を記念して行われている「花曇ふるさと俳句大会」の第3回大会において文化財課職員田中大輔がおこなった講演「俳句の生まれる風土―甲子雄の愛したふるさと―」およびその後、同句会を主催する「今-KON-」の機関紙2003年夏(第2号)に掲載された同名の講演記録の一部を再構築したものです。
※引用句はすべて福田甲子雄の作品です。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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