南アルプス市ふるさとメールのお申し込みはこちら

南アルプス市は、山梨日日新聞社とタイアップして「南アルプス市ふるさとメール」を発信しています。ふるさとの最新情報や観光情報、山梨日日新聞に掲載された市に関係する記事などをサイトに掲載し、さらに会員登録者にはダイジェスト版メールもお届けします。お楽しみください!

南アルプス市ホームページへ

プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

南アルプス市ふるさとメール閲覧ページのURLアドレスが変わりました。ブックマーク(お気に入り)やリンクのURLアドレスの変更をお願い致します。

http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/

【連載 今、南アルプスが面白い】

文化財を守る地域の力
~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語その2~

 地域の人々によって、太平洋戦争中続けられた長谷寺本堂改修への取り組み。今回は戦後完成した解体修理事業までの物語です。
 

  GHQ美術記念物課ギャラガー博士の視察
 敗戦後、文化財保護行政もGHQの統制下に入りました。その中心的な人物が、アメリカ人のギャラガー博士です。ギャラガー博士は日本各地の文化財を視察し、戦争で荒廃した文化財の復旧の指示をだしています。そして、戦中からの文部省、県との協議が実を結び、昭和21年10月、ギャラガー博士が長谷寺を訪れたのです。当時10代後半であった中島住職の長女である君易さんは、ギャラガー博士が視察に来た当時のことをはっきりと覚えていました。
 
「軍服を着ていてね。住職の父や檀家の人が対応しました。なにもない時代でね、さといもの羊羹を作ってだしたら、美味しいって喜んでくれたのを覚えてるよ。」

001

ギャラガー博士との思い出を語る小暮君易さん

002

昭和21年9月25日付 内務省からのギャラガー氏視察文書
 
 当時の新聞にギャラガー博士が長谷寺を視察し、長谷寺復旧を支持したことを伝えています。
 
「昨年十月同寺を訪れた連合総指令部美術記念物係ギャラガー氏が観音堂の国宝的価値を賞賛するとともに修理を要望された」(昭和22年8月1日 『読売新聞』)
 
「廿一年十月調査のため来県したGHQ美術記念物係ギャラーガー博士も美術的価値を賞賛するとともに早急修理を勧告したほどであった」(昭和23年6月8日 『東京毎日新聞
 
 もちろん、この視察を用意したのは、文部省の乾兼松であり、戦時中続けられた地域からの要望と取り組みがあったからです。
 

  大岡實博士の登場
 この結果、昭和22年国庫補助事業による修復が決定されました。これは戦後全国で予定されていた建造物修復事業の中で、奈良県の法隆寺と並び最も早い修復事業です。同年4月24日に国宝建造物修理委員会が組織され、本堂の解体修理が始まりました。この事業で修復の監督となったのが、文部省技官の乾兼松と同じ技官である大岡實(みのる)、現場の主任は大岡の教え子であり韮崎市に住む廣瀬沸(いずみ)でした。
 

004

大岡實博士

005_2

廣瀬沸技師(左)と中島住職(右)
 
 本堂の解体修理中に「大永四年(一五二四)林鐘 吉日」と墨書されていた古材が発見されたことから、改築された年代が判明し、さらなる古材の調査を経て室町時代当時の姿に戻すことが決定されました。
 君易さんは当時の様子をこう話してくれました。
 
「大岡先生は何度も来てね。1週間も家に泊まることもあったよ。大岡先生と乾先生は庭の台の上に屋根の古材を置いて、二人で修理の議論してたさ。そうしてこの屋根が真反りに決まったんだよ。」

006_2 007

長谷寺本堂解体修理写真
 
 戦後全国で大工の人材が不足している中、長野県富士見町乙事の宮大工が、地元で火災にあった諏訪神社再興のために経験を積むため、約5名以上泊り込みで解体修理を担うことになりました。君易さんは小池さんや赤羽さん、藤原さんといった棟梁の名前を覚えています。長谷寺で経験を積んだ宮大工の人々は、後に山梨市の窪八幡神社や甲州市大善寺の修理をも行うこととなりました。

008

解体修理中の長谷寺本堂と乙事の大工 足場は解体修理後、山梨市窪八幡神社の修理に利用された
 

 法隆寺金堂焼損と大岡實
 長谷寺の解体修理が順調に進んでいた昭和24年1月26日早朝、やはり修理中の法隆寺金堂が火災に見舞われ、世界的な遺産と言われた7~8世紀の壁画が焼損しました。この時の法隆寺の修理責任者が、大岡實でした。

 法隆寺の火災はその後の大岡の人生のみならず社会全体を大きく変えていくことになります。大岡は法隆寺修復の責任者として訴えられ、文部省を休職となりました。後に無罪となりましたが文部省の職を追われます。法隆寺の経験から大岡は、地震と火災に耐えるため鉄筋コンクリートを利用した伝統的な寺社建築を目指し、東京大空襲で消失した浅草浅草寺の再建を手がけました。一方、法隆寺金堂の火災を契機に、それまで関心の薄かった文化財保護へ世間の注目が集まり、昭和25年に文化財全体を守る「文化財保護法」が成立し、昭和30年に、1月26日が文化財防火デーとして制定され、日本各地で文化財の防火訓練が行われるようになりました。
 

009

平成30年1月に行われた地元消防団による文化財防火デー 長谷寺
 

 
長谷寺解体修理の完成
 昭和25年長谷寺の修理は無事完了し、3月18、19日に檀家、近隣の町村長、乾技官や廣瀬技師など多くの人々が見守る中、落成式が盛大に行われました。そこには大岡が重視した中世建築を象徴する美しいカーブを描く屋根が見事に再現されていました。落成式からしばらくたって大岡は長谷寺を訪れ、完成した本堂を見ながら君易さんにこんな言葉を残したそうです。「この屋根は関東一の真反りなんです」。

 日本の文化財保護の1頁とも言える本堂の解体修理事業。この事業が成就したのは、戦時中から続けられてきた地域の人々の思いが、さまざまな人々と長谷寺を結びつけたからだと言えるでしょう。

010_2

昭和25年3月 長谷寺解体修理落成式

011

上棟式出席予定者名簿

012

現在の長谷寺の屋根

【南アルプス市教育委員会文化財課】

≪ 前の記事 | トップページ | 次の記事 ≫