明治時代、近代化を急ぐ新政府は河川や港湾整備のため、明治5年(1872)からオランダ人技術者を招聘します。その一人、ローウェンホルスト・ムルデルは、明治12年(1812)土木工師として日本に来日し、明治15年、御勅使川や滝沢川など、富士川(釜無川)の支流である諸河川の調査で南アルプス市の土を踏むことになります。
ムルデルは1848年、オランダのライデンで生まれ、デルフトの王立土木工学高等専門学校を卒業しました。熊本県三宇城市三角港(みすみこう)の建設や利根川運河の整備など、日本に滞在した約11年の間に、日本の港湾建設や治水・砂防に大きな足跡を残しました。
ここで調査結果を基にムルデルが作成した「山梨・静岡両県下富士川巡視復命」(明治16年)をやや長文ですが引用してみます。
【写真】ムルデル
■御勅使川
更に下り韮崎の少しく下に至り、一支流(右支)の釜無川に注ぐあり是最大にして又不潔なる者の一なり乃ち御勅使川是なり此川は二口を以て幹河に入る。一を御勅使川と云ひ、一を前御勅使川と云ふ。此両川は交りも軽重を相為し、或は甲の主たるあり、或は乙の主たるあり。其床甚動き昜き砂石にして高水毎に変化を生じ之れを流下する至穢の水溝は大小乃方向を変ず余少しく分流の上に遡り而して是亦屡々地の大小の壌崩乃此川并に之の帰する支流の岸の侵蝕ありて、此主因をなすを証明せり。又爰の戓、夛々の樹木を伐採し峻嶮なる山腹に沿ふて渟落せしむるに因り凶状を加へ、新に壌崩を生ずる所あるに遇へり。
此地方に於て田地を灌漑し水車を運転するに供する溝渠の事に就ては、余県官に勧告する所あり。其要点左の如し。
則ち斯の如き溝を設くるの許可を興ふるに方つては兼て其利害関係の者に義務を負はしむるを緊要とす。戓は溝内の速力岸乃び底を侵蝕するが如く大ならざる様之を設くべき事、或は其大速力を避くる能はざる時は底及び岸を護するに強固なる石の被覆をに以てし又水をして階段状に小堰を越て流落せしめ以て其溝をして汚物を伴て終に川に帰せしむる無きを図る事の如き是なり。
【写真】現代の御勅使川
■瀧澤川 ツボ川
笛吹川の下に至り更に右側に滝沢川なるものあり、是其吐口近傍にツボ川と会し、而後二流相合して富士川に注ぐ。両川の上は、上に既に反覆言ふ所と同一の弊あり。許夛の壌崩及び右岸の侵蝕を現せり。両川の床は砂にして其長さの過半に亘り高く平地の上に凡立す。聞く処に拠れば、三十年末、其高堆必ず十尺に及べりとす。此高堆は尚常に歇まず、故に汎溢及び卑田荒廃害年を遂て増加す。旦其堤防只砂礫より成るが故に、殊に水を防ぐの力微なり。其他上流には河床の広さ充分なるも下流に至りては甚だ狭窄と為り、大雨に際しては下り来るの水量を容るに足らざるが如し。」
この復命からは、明治10年代の御勅使川の状況やオランダ人技術者ならではの視点を読み取ることができます。
「是最大にして又不潔なる者の一なり乃ち御勅使川是なり」の文言からは、いかに御勅使川が洪水を起こす川で問題が大きかったかがうかがえます。また、急峻な山の樹木を伐採することによって、被害が拡大している点も指摘されており、砂防の必要性が示されています。
滝沢川と坪川での報告では、「両川の床は砂にして其長さの過半に亘り高く平地の上に凡立す。聞く処に拠れば、三十年末、其高堆必ず十尺に及べりとす。」とあり、二つの河川の河床が山々から侵食された砂であるため平地より川床が高く、いわゆる天井川であった状況が報告されています。さらに河川が合流する下流地域では、河川の広さが十分確保できていないとの指摘がなされています。
このムルデルの建言を受けて、早くも明治16年から御勅使川で初めて内務省による直轄砂防工事が行われることとなり、御勅使川沿いには多数の巨石積み砂防堰堤が築かれました。残念ながら、それらの堰堤は御勅使川の猛威には太刀打ちできず、その多くが流失や破損しました。しかし、砂防の伝統は引き継がれ、明治43年に政府によって「第一次治水計画」が策定されると、大正5年には御勅使川上流の芦安地区に日本で初めて本格的なコンクリート堰堤が設置されました。コンクリート堰堤を代表する砂防技術は、現在までに世界各地へ広まっており、世界の標準語として「SABO」と呼ばれています。
御勅使川の砂防事業は、日本を代表する近代砂防の礎であり、現代でも多くの技術者がこの地を訪れます。平成26年度には、インドからの視察団もこの地を訪れました。オランダ人技術者のムルデルが端緒を開いた御勅使川の砂防技術によって、甲府盆地に生きる私たちの暮らしが今でも支えられているのです。
【写真】芦安堰堤を訪れたインド視察団
【南アルプス市教育委員会文化財課】