■ 土屋惣蔵昌恒(つちやそうぞうまさつね)
武田家と命運をともにした武将
土屋昌恒は先月ご紹介した土屋昌続の弟で、南アルプス市徳永を拠点とした金丸虎義の五男として生まれました。成長すると駿河の武将土屋備前守の養子となり、土屋姓を名乗ります。信玄の病没後、その家督を継いだ武田勝頼の側近となりました。天正3年(1575)、武田軍が織田・徳川連合軍に長篠の戦いで敗れ、兄昌続が戦死したため、昌続の「土屋」姓も継承することになります。
天正9年12月、武田勝頼は韮崎市七里ヶ岩の上に新しい府中である新府城を築き武田家の再建を目指しますが、翌年の1月末に美濃との国境を守る木曽義昌が反旗をひるがえして織田と結ぶと、伊那・飛騨から織田軍、駿河から徳川軍、伊豆、相模から北条軍の侵攻が一気に始まります。さらに信玄の娘を妻としている親族衆穴山梅雪までもが徳川家康に寝返るなど、武田軍は主だった反撃もできないまま総崩れとなり、勝頼は3月3日には完成したばかりの新府城を捨てて、譜代の家臣小山田信茂(おやまだのぶしげ)の薦めた郡内の岩殿城を目指すことになります。この時付き従う家臣は土屋昌恒はじめおよそ六百名でしたが、郡内へ向かう途中にも多くが離反し、さらに小山田信茂までもが裏切ったため、一行は笹子峠を越えることができませんでした。
3月11日、昌恒ほか勝頼一行は五千もの織田軍に現在の甲州市大和町田野に追い詰められます。数万の軍勢を動かしてきた武田家もこの時まで勝頼に従った武将はわずか四十数人。その中には昌恒だけでなく弟二人も付き従っていました。昌恒は、すでに勝敗が決している戦いの中で大軍を前に弓で奮戦し、最後まで勝頼を守り続けました。昌恒の働きは、戦後織田方からも賞賛され、「よき武者数多を射倒したのちに追腹を切って果て、比類なき働きを残した」と『信長公記』に記されています。また、その活躍から、昌恒が崖の狭い道筋に立ち、片手に蔓、片手に刀を持って押し寄せる敵の大軍を防いだという「土屋惣蔵片手千人斬り」の伝説も生まれました。
天正17年(1589)、徳川家康は鷹狩りの途上、静岡県清見寺を訪れました。そこで一人の子供と出会います。その子がお茶を出す姿に、家康は「尋常の者ならず、何者の子ぞ」と住職に問いました。住職が土屋昌恒の子と伝えるとあの忠臣昌恒の子かといたく納得し、家康が身柄を引き取ります。大河ドラマ「真田丸」で家康が信頼する側室阿茶の局を斉藤由貴さんが演じていますが、昌恒の子はその阿茶の局の養子となり、後に徳川秀忠に仕え(※3)忠直と名乗ります。慶長7年(1602)には千葉県久留里藩(くるりはん)を与えられ、初代土屋藩主となりました。
時は流れ元禄14年(1701)に起きた赤穂事件(忠臣蔵)に、忠直の子孫たちは深く関係します。一人は土浦藩主で事件当時老中職にあった土屋政直(まさなお)で赤穂浪士を裁く立場となり、もう一人は敵役吉良邸の隣に住んだ土屋主税(ちから)で、討ち入りを見逃すだけでなく高提灯を掲げ赤穂浪士を助けたといわれています。
最後まで武田家と命運をともにした昌恒の血筋は、時を超え現在でも全国に広がっています。
【南アルプス市教育委員会文化財課】