■ 土屋昌続(つちやまさつぐ)
土屋昌続は、南アルプス市徳永を拠点とした金丸虎義の次男で、主に武田信玄に仕え、信玄病没後は家督を継いだ勝頼を支えました。『甲陽軍艦』によれば永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、上杉軍の奇襲を受け動揺する武田軍の中で、昌続だけが動じずに本陣の信玄を守り続けたといいます。その功績から甲斐の名門「土屋」の名跡を継ぐことを信玄から許されたとも言われます。跡部勝資(南アルプス市を駆けた武田家臣団その2)の際にも触れましたが、昌続は信玄の時代では最も多く朱印状を奉じた奉者であり、「甲府にての奉者」と呼ばれました。信玄は信玄堤(龍王御川除)を築堤し、釜無川の治水政策を行ったことは広く知られていますが、天正2年(1574)現在の中央市に位置する山之神郷に対しても治水工事を命じた朱印状が残されており、この朱印状の奉者は昌続が務めています。信玄、勝頼と武田家を支えてきた昌続は、天正3年(1575)武田家が織田・徳川連合軍に敗北した長篠の戦いで譜代の重臣とともに討ち死にし、その生涯に幕を閉じました。
土屋姓以前、昌続は金丸平八郎と名乗っていました。『甲斐国志』には、南アルプス市徳永に位置する曹洞宗寺院長盛院境内が昌続の実家である金丸氏の「数代ノ居址ナリ」との記述があります。実際に長盛院は御勅使川扇状地扇端部の東側を釜無川が削りとった崖上に位置していて、館にふさわしい立地条件を備えています。さらに現在でも長盛院の西側には土塁と堀跡が残されていて、土塁の中央には虎口と推測される約3mほど土塁が途切れた部分も見られます。本来土塁は北側にもめぐっていましたが、現在は削平され、墓地の基壇にその面影を見ることができます。また、明治28年古寺調査書に添付された境内図には、土塁を示す「堤」が西側だけでなく南側に描かれていることから、南側にも土塁が続いていたことがわかります。こうした天然の崖と土塁、堀で守られた金丸氏の館も武田家滅亡の際、兵火にかかり消失しました。現在の長盛院は延宝5年(1677)(甲斐国志では延宝4年)、長盛院九代序法によって金丸氏館跡地に移転されたものです。
【写真左】長盛院西側に残る土塁と堀跡
【写真右】明治28年長盛院境内図
【南アルプス市教育委員会文化財課】