■河村 道雅(かわむらみちまさ)
下野守(しもつけのかみ)の官途名を持つ河村道雅については、前回紹介した原虎吉以上に史料が乏しく、現在その人物像に迫ることは難しいのですが、『甲陽軍鑑』によれば、内藤外記とともに「御なんど(納戸)奉行(※)」に任じられていたことが分ります。
また『甲斐国志』によれば、落合村(現在の南アルプス市落合)の地頭であり、天正10年(1582)の武田家滅亡の際に、勝頼に従って討ち死にしたと伝えられます。法名は、西山常円庵主。
『国志』はまた、妻がその菩提を弔うために屋敷跡を寺にし、「河村山 常泉寺」と号したとも伝えています。常泉寺は、堂宇はすでにありませんが、墓地を含む敷地は現在も南アルプス市落合の県道(いわゆる廃軌道)沿いにあり、道雅の足跡を表す石碑が建てられています。寺を建てた妻は、天正13年(1585)に没し、法名は真如貞春大姉と伝わります。
なお、地域の伝承では、道雅には幼い息子がありましたが、屋敷が織田・徳川の兵に焼き払われたこともあり、身の迫害や危険を避けるため、河村の姓を継がず、深沢の姓を名乗り東隣地に居住したと伝えられています。
ところで、『甲斐国志』や『甲西町誌』は、道雅ゆかりの常泉寺の本尊を薬師如来としますが、現在の常泉寺の敷地内に安置される仏像に薬師如来像はなく、本尊として祀られているのは「定印(※※)」を結んだ阿弥陀如来坐像です。この阿弥陀如来像は、調査の結果15世紀の造立と考えられ、まさに道雅の生きた時代、常泉寺創建時に近い造立であり、道雅ゆかりの仏像といえそうです。
『国志』などで本尊とされる薬師については、現在は失われた像が別にあったのでしょうか。あるいは、阿弥陀如来像と薬師如来像は、手に載せられた薬壺の有無やそれぞれの手が結ぶ印相から尊名を判断することが多いのですが、この阿弥陀像の両手部分には後に修復された痕跡があることから、造立年代からいっても後補の際に薬師から印相を造り替え、阿弥陀とした可能性も指摘できます。
【写真】道雅ゆかりの阿弥陀如来坐像(常泉寺)
ところで、道雅の屋敷跡と伝わる常泉寺は、このシリーズ第1回目で紹介した真田(武藤)昌幸ゆかりの阿弥陀寺の北、わずか150m、第2回で紹介した跡部勝資の屋敷跡、第3回の原野虎吉の菩提寺ともそれぞれ450m、約2kmと、この周辺に近接して武田遺臣の足跡を辿ることができます。周辺には、古代にさかのぼる可能性のある条里型の地割り(※※※)がひろがり「弘法大師伝説」が色濃く残るほか、夢窓国師ゆかりの古長禅寺や重要文化財安藤家住宅など文化財も点在しています。
現在南アルプス市では、この地域周辺を散策することができるマップを市内各所で配布しており、インターネットからもダウンロードできるようになっています。
遺跡で散歩vol.4 戦国時代の史跡を歩く
遺跡で散歩vol.6 弘法大師伝説ゆかりの史跡を歩く
また、現地でも各所に設置されたQRコードから情報を得ることができます(くわしくはこちら)。みなさんも、南アルプス市内のこの歴史空間を訪れてみてはいかがでしょうか。
(※)御納戸奉行 江戸幕府における、「納戸方(納戸頭)」と同様であれば、主君の金銀・衣服・調度の出納、また家臣等からの献上品および家臣等への下賜の金品をつかさどるような役目と考えられます。
(※※)定印 両手を上向きにして、それぞれ親指と人差し指の先を合わせて組む印相(いんそう:仏が両手で示す様々なデスチャー)。定印は、阿弥陀如来の印相として知られます。
(※※※)条里型の地割り 1町(約109m)四方に整えられた、碁盤の目状の土地区画。かつての農業基盤整備の痕跡。現在地上に見られる条里型地割りの多くは、中世以降の施工とされるが、南アルプス市南部に認められるこの地割りについては、発掘調査の結果、その萌芽が平安時代にさかのぼる可能性も指摘されている。
【南アルプス市教育委員会文化財課】