■原 虎吉(はらとらよし)
大隅守(おおすみのかみ)の官途名で知られる原虎吉については、あまり詳しい史料が残っておらず、生没年も不詳ですが、武田氏の戦略や戦術を記した軍法書である『甲陽軍鑑』には、信玄の「御身近」に仕えた横目衆(※)十人内のひとりに記されています。
『軍鑑』には、横目衆の中では最多の18回もの感状(※※)を信玄から受けたことや、永禄4年(1561)の第4回川中島の戦いの際には、信玄本陣に単騎乗りこんだ上杉謙信に槍を繰りだし信玄の窮地を救ったエピソードも記され、かなり武芸に秀でた人物であったことがうかがえます。
江戸時代に浮世絵としてしばしば描かれた川中島の戦いの「信玄、謙信一騎打ち」の場面には、しばしば信玄の傍らに槍をもった虎吉が描かれています。また、長野市の八幡原史跡公園(川中島古戦場)には、謙信が武田の本陣に乗り込み、信玄と一騎討ちをした際、駆けつけた虎吉が謙信を討ち損じて、悔し紛れに傍らの石を槍で突き通したと伝えられる「執念の石」があるほか、長野市篠ノ井会(あい)の地蔵寺には、原大隅守の墓と伝わる墓碑ものこされているそうです。
【写真】歌川国芳 川中島合戦 信玄の傍らに原大隅守が描かれる
なお虎吉は、現在の南アルプス市田島に拠点を持ったとされ、『甲斐国志』によれば法名は「妙太」、田島の妙太寺がその菩提寺といわれています。その妙太寺には本堂の脇に観音堂があり、一躯の観音像が安置されています。
【写真】観音堂と由緒
南アルプス市域の村々の中には、水害や地震など、様々な災害によって移転を余儀なくされた村が数多く存在しますが、田島も永禄年間(1558~70)の水害によって、かつて滝沢川の西側にあった村域が流失し、河東の現在地に移転したと伝えられています。神社寺院なども同時に現在地に移されたとされ、滝沢川の西側にのこる古屋敷、天神河原などの小字名から旧居住地をうかがうことができます。
【写真】田島の移転
現在、妙太寺の観音堂に安置される観音さまについては、平安時代に、甲斐国司であった源頼信が、夢のお告げにより自己所有の観音像(最澄作)を天神宮に奉納したが、その後永禄年間の水害で天神宮とともに流されてしまい、その際虎吉が滝沢川東岸への天神宮再建にあわせ、新たな観音像を彫らせて、旧像にちなみ最澄作として奉納し、明治の神仏分離によって妙太寺に安置されたものといわれています。
【写真】妙太寺に安置される観音像
しかし、現在のお像は、その尊容等からみて江戸時代の作と考えられ、後背背面の永禄4年、原大隈守の銘も後に刻まれたものと考えられています。その横に「文化度有故望月納」とも記されることから、盗難か焼失か、その理由はわかりませんが、現在のお像は、或いは訳あって文化年間(1804~18)に望月家(※※※)が中心となって新たに奉納されたものかもしれません。
【写真】観音像光背背面の銘文 奉納天神宮寶殿 永禄四辛酉年二月日 原大隅守(花押)
しかし、古代からの地域における観音様への信仰は途絶えず、昭和53年(1978)には地域の人々の努力によって妙太寺境内に観音堂が整備されました。古代から守られ、原大隅守虎吉が伝え、その後も地域の人々の大切に信仰されてきた観音さま。そのお姿は変っていってしまったかもしれませんが、観音さまへ寄せる地域の人々の思いは些かも変ることなく、間違いなく未来へもリレーされていくことでしょう。
【参考引用文献】
柴辻俊六ほか編2008『武田氏家臣団人名辞典』
(※)横目衆 『甲陽軍鑑』によれば、他の家臣を監視し、家臣の様子を信玄に報告したほか、甲州に通ずる各筋の警護なども行った役職のようです。
(※※)感状(かんじょう) 主として軍事面において特別な功労を果たした下位の者に対して、上位の者がそれを評価・賞賛するために発給した文書のこと。(Wikipedia)
(※※※)望月家 望月家は代々、田島の名主役を務めてきた家のひとつです。
【南アルプス市教育委員会文化財課】