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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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【連載 今、南アルプスが面白い】

野呂川話 ~長い長い水を求めた物語 第一幕 江戸時代~

とらちゃん:芦安出身の女子高生。美人顔。歴女でもある。曽我物語のヒロイン虎御前とかかわりが・・・。
だいちゃん:加賀美出身の女子高生。かわいいが天然とも言われる。甲斐源氏加賀美遠光の娘、大弐局とかかわりが・・・。

とら:毎日暑いね
だい:ほんと40℃よ。まいっちゃうわ。ちょっと水くれない。
とら:はい、南アルプスの名水よ
だい:ただの水道の水じゃない。
とら:御勅使川の伏流水だから、南アルプスの名水に変わりはないの。
だい:へー。そういえばその水をつくってるのは「野呂川水道企業団」っていうところよね。野呂川は夜叉神峠の西側に流れる川でしょ。なんで御勅使川じゃなくそんなに山奥の川の名前が付けられてるのかな?
とら:いい質問ね。その答えは「野呂川話」の歴史にあり!
だい:歴女の燃えた瞳になってる。1万ボルトはありそうよ。
とら:行くわよ!御勅使川扇状地が昔「原方」って呼ばれていて、その中でも扇央部に位置する七つの村「原七郷」は「月夜の光」でも日照りがおきるって言われるくらいの乾燥した土地だったってことは知ってるよね。
だい:もちろん。世界でいちばん暑い夏を感じられるところ。雨乞いもしてたんだよね。雨、雨、降れ降れもっと降れって。(■2010年10月15日 (金)水を求めた扇状地の人々 ~雨乞いのパワースポット長谷寺~2010年11月15日 (月)水を求めた扇状地の人々 ~雨乞いのパワースポット大笹池~
とら:その原方を潤そうと江戸時代の寛文11年(1671)に作られたのが徳島堰。(■2010年9月15日 (水)御勅使川扇状地を潤す徳島堰
ただその徳島堰でも水は十分ではなくて、原七郷の人々は溜池に水を引いてそれを糧としていたの。溜池が200カ所以上もあったそうよ。
だい:オラこんな村いやだって人もいたかも。たいへんだよね。
とら:その水不足を打開しようと、雪解け水の豊富な野呂川に目がつけられたの。夜叉神峠にトンネルを掘って野呂川の水を御勅使川へ通しちゃう、そしてその水で原方を潤そうとした壮大な計画が江戸時代に考え出されたのよ。野呂川疎水(そすい)って言われてるわ。
だい:すっげー。はっとして心にぐっとくる計画ね。ありえないわ。
とら:ありえない?そもそも物事には・・
だい:それはいい。続けて。
とら:そのはじまりは、元禄4年(1691)、「西郡新堰」っていう新しい用水路を作る計画があって、それが野呂川話の始まりじゃないかって言われてるの。ただし具体的な野呂川の名前なんかがでてこないので、はっきりしてないわ。
だい:ふーん。まだわからない、揺れる思いね。
とら:なんだか80-90年代の匂いがするわ。さて、享保9年(1724)、時の将軍は吉宗、新田開発が奨励された時代なんだけど、西郡でも原方(上八田・西野・榎原・上今井・吉田・十五所・沢登・徳永)の村々と開発発頭人との相対証文が残っていて、新しい堰を幕府に要望したの。幕府から実地調査にも来たらしいけど、やっぱり工事が難しくて計画が進まなかったのよ。

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【写真】野呂川疎水計画図 江戸時代 穴口がトンネルの入り口で井出の沢の穴口から御勅使川へ早川(野呂川)の水を通水する計画。絵図中央に夜叉神峠の文字が見える

だい:暴れん坊将軍の時代よね。原方の人たち、計画がなくなって悲しみがとまらなかったでしょうね。
とら:明和8年(1771)には幕府側から21ヶ村に税金を免除するから自分たちで工事をしてみないか、っていう問いかけがあって、村々側はそりゃもちろんほしいけど、自分たちでは工事が難しく維持管理ができないって答えてるの。
だい:幕府は自分たちがするって言わないのね。ずるいよ。
とら:寛政8・9年(1796-97)には、市川代官の榊原小兵衛が野呂川疎水実現へ向けて勘定方の役人を野呂川の現地に行かせてるのよ。桃園村の長百姓・庄八と小笠原村の名主・仙蔵が案内したわ。そしてこの周辺の絵図も初めて描かれたの。
だい:がぜん現実味がでてきたわね。この機会、テイク ア チャンス。掴むしかない!
とら:でも進まなかったのよ。
だい:そんな。さぞかし原方の人たちの心には悲しみが北岳の雪のように積もったわね。
とら:詩人ね・・・。まだまだこれからよ。文政2年(1819)、原方の19の村々が共同で、市川代官所に野呂川疎水を通してほしいって初めて村側から嘆願書をだしたの。それは、「野呂川の小鷺っていう岩山からトンネルを約6キロ掘って御勅使川へ水を落とします。この増えた水を下流の有野村で用水路に引き込んで、各村へ分配したら、飲み水にも困っていた村にまで田んぼができるし、税収も増えます。ですからなにとぞ許可してください」って内容。ほら、想像してごらん。溜池の水が命の水だった村が水で潤される姿を。みんなが平和に暮らす姿を。
だい:素敵!今度こそ負けないで!掘り抜いて。
とら:翌年の文政3年には野呂川堀抜箇所の工事設計書と完成した場合、どのぐらい各村で新しい田ができるのかも調べられたのよ。
だい:やったー。未来はそんな悪くないよ!
とら:ここで、「ちょっとまった!」の声が。文政3年(1820)、御勅使川の伏流水が湧き出る田方の14の村々から反対意見が代官所へ出されたのよ。
だい:ててっ。ちょっと、ばかにしないでよ。水がこなかったらそっちのせいよ。
とら:田方の人たちからしてみると、いつも水が湧き出て水はけが悪く洪水でとても困っているのに、御勅使川の水を増やしたら、もっとこまるじゃんけって考えね。原方と田方では水に関する土地質が正反対だから、対立も根深いものがあったの。どちらも生活がかかっていたからね。
だい:うーん、田方の意見もわかるけど。でもみんなの夢を諦めないで。いつでも夢を。
とら:諦めないわ。天保12年(1841)、原方の村々も負けじと19の村がタッグを組んで、自分達で工事をするから現地を見た上で工事を許可して下さいって代官所にお願いしたの。
だい:長ぁ~~~~い夜は明けないの。
とら:まだね。4年後の弘化2年(1845)にも18ヶ村で嘆願書を出したわ。でも・・・だめだったの。
だい:もう・・・終わりだね。野呂川が遠くに見える。言葉にできない・・・わ。
とら:野呂川見えるの?でも少しずつ前には進んでるの。3歩進んで2歩下がるって感じだけど。
だい:長い。疲れた。いつまで続くの。
とら:江戸時代はこれで終わり。
だい:今何時?
とら:そうねだいたいね。
だい:今何時?
とら:ちょっとまっててよ。らららららららら♫。あ、もうこんな時間!続きはWEBでね。
だい:ここはWEBですけど!さては時間がないのね。
とら:また来月。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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