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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

【連載 今、南アルプスが面白い】

根方の魅力⑩~高尾穂見神社と村々の祈り(下)

 前号に引き続き、今回も櫛形山の中腹にある高尾山穂見神社について紹介します。
 今回は「棟札」を通して穂見神社の歩みや眼下に広がる根方、原方、田方地域とのつながりなどについて考えてみたいと思います。

穂見神社本殿と棟札
 穂見神社の本殿は山梨県の文化財に指定されている建造物で、江戸時代の前半にあたる寛文5年に建てられ、宝永2年の修復以降幾度かの修復を繰り返し、350年もの間風雪に耐えてきたことがわかっています。
 これは、神社に伝わる棟札により判明したことで、神社には、本殿だけでなく神楽殿や拝殿などのものも合わせると合計で21点の棟札が伝わっています。その内、本殿の建築と最初の修復について記載された棟札が最も古い2枚で、寛文・宝永の時代が明記されており、本殿の建築年代・経緯を知る決め手となったことから、本殿は棟札を含めて昭和40年に県の文化財に指定されたのです。
 
写真1
【写真】穂見神社本殿(山梨県指定文化財)
 
 棟札とは、建築や修復の記録・記念として築造の目的やその年月日、建築主・大工の名前などを記して棟木や柱の高いところへ取り付けた札のことをいいます。古い歴史的な建造物には遺されていることが多く、建築年代や建造物の性格を知る手がかりとして有効な資料といえます。
 
寛文5年の棟札
写真2

【写真】寛文5年の棟札(左:裏、右:表)
 写真3裏 銘 写真3表
【写真】棟札の銘文(『山梨県棟札調査報告書 国中Ⅱ』より)
 
 高さ91.0㎝、幅30.1㎝、厚さ2.8㎝の長方形の板で、神殿(本殿)建立、寛文5年(1665)の銘があり穂見神社に伝わるものの中で最も古い棟札です。
 表面からは寛文5年に現在の本殿が建てられたことや、祈祷の文言、神主さんの名前や、信州伊那郡の大工により建てられたことなどが分かります。裏面には呪符や五行思想の文字が配列されています。
 また、高尾山の「高」の字が現在と違う漢字が使われているものの、主文に「鷹尾山穂見神社御崎大明神」とあり、所在地である鷹尾山と穂見神社の名が揃っており、これこそが現存する資料の中で所在地名と神社名の共存する最古の資料といえます。後から書き足されたものでも、同名の他の場所にある神社のことでもない、高尾山穂見神社を示す信憑性の高い資料といえます。

宝永2年の棟札
写真4

【写真】宝永二年の棟札(左:裏、右:表)
写真5裏 銘 写真5表 銘
【写真】棟札の銘文(『山梨県棟札調査報告書 国中Ⅱ』を加筆修正)

 総高90.0㎝、幅27.1㎝、厚さ2.8㎝の長方形の板で寛文五年の棟札と近い大きさといえます。
 これは神殿(本殿)と拝殿を修復した際のもので、宝永2年(1705年)に工事が行われたことがわかります。
 表面の主文には鷹尾山穂見神社の名が見えます。先ほどの棟札と違い「御崎大明神」の名は記されていません。
 裏面には先ほどの棟札と同じく呪符等が配列されており、なかでも注目したいのはその下に上宮地村を筆頭に58の村名(当時の村の単位は現在の区の単位と大体同じです)が列記されていることです。
 
 この58の村々をみてみると、現在とは違う漢字の表記がされていたり、面白い発見があります。
 ではこれら58の村は何を表すのでしょう。
 実は高尾集落に伝わる文化8年(1811)の「本社修復勧化添触願」という史料にそのヒントがあります。この史料によると、寛文三年(1663)、元禄十六年(1703)、延享二年(1745)宝暦十一年(1761)の修復等の資金の調達の際に、「相対勧化(そうたいかんげ)」(寄付金を集める方法のひとつ)によって資金を集めたと記されています。
 おそらく元禄十六年の勧化活動によって3年後の宝永三年の棟札で知られる修復工事の実施ができたものだと考えられます。
 つまり宝永二年の棟札に記されている村名は勧化に応じた村(村ごとに寄付をしていたことがわかります)といえるのです。
 
図1
【図1】棟札に記されている村の分布(明治43年測量昭和32年修正「韮崎・御嶽仙峡・甲府・鰍沢」1/50000を加筆)
 
高尾集落の神社?
 58の村名を地図に示してみました。この地図には当時存在していたとみられる地名を入れ込み、記載されている村だけをグレーで表してみました。曲輪田新田や下宮地などは当時はまだひとつの村として独立していなかった可能性もあるため、南アルプス市内では、滝沢川と釜無川の下流域をのぞくほぼ全ての村名が記載されていることがわかります。村名のない地域は水害の頻発地帯でもあるためそれらの事情と関係があるのかもしれません。
 また、現在の南アルプス市だけでなく、富士川町の舂米や、苗敷山穂見神社のお膝元にあたる韮崎市甘利築の地名までもがみえます。
 相対勧化に応じた村々ではありますが、同時に高尾山穂見神社の信仰圏の広さを物語っているともいえるでしょう。高尾山穂見神社は櫛形山の中腹に鎮座する高尾集落の神社ではありますが、眼下に広がる里の村々の神社でもあることを示しているのです。
 
 聞き取り調査によると、御勅使川右岸の南アルプス市側の地域でも韮崎市側の苗式山の穂見神社にも参拝に行く習慣があったようですし、御勅使川左岸の韮崎市側の地域でも御勅使川を渡って高尾山穂見神社へ参拝に行く習慣もあったようです。この二つの穂見神社は御勅使川を挟んだ位置に鎮座していることも興味深い点です。
 前号で紹介した古碑で分かるとおり、古代の高尾山穂見神社は山岳信仰の入り口あるいは修験者の修行の場であったことが伺われます。修験といえば山の信仰とともに雨乞いで知られるように水の信仰といった面も併せ持っているようですから、御勅使川を挟むように鎮座する穂見神社は、山の信仰の場であるとともに、御勅使川や深沢川など山から流れ出て根方、原方、田方を潤す水のように、里の人々の祈りを紡いでいた存在なのかもしれません。
 今でも、五穀豊穣、商売繁盛の神として多くの参拝者でにぎわう理由はこれらの歴史に裏付けられていることでしょう。
 
 高尾山穂見神社をじっくりと考えることで、南アルプス市域をはじめ周辺地域に暮らしてきた先人の思い、自然に畏れながらも祈り暮らしてきた思いがみえてくるように思えます。

 

 【南アルプス市教育委員会文化財課】

 

 

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