では前回の謎かけの答えから。「お月夜でも焼ける扇状地」とかけて「連敗した試合について聞かれたサッカー選手」と解く。その心は「どちらもかんそう(乾燥・感想)に困っています」。
江戸時代に入ると、乾燥した扇状地で育てられた作物の様子が、よりはっきりと分かるようになります。その手がかりとして、村ごとの主な生産物が書かれた、現在の市政要覧ともいえる村明細帳をのぞいて見ましょう。「お月夜でも焼ける」とうたわれた原七郷(上八田・在家塚・西野・上今井・桃園・吉田・小笠原)の一部の村々の作物をリストにしてみました(表1)。リストから読み取れるのは、粟(アワ)や稗(ヒエ)、麦、蕎麦(ソバ)などの雑穀や大豆、大根、菜などを栽培した畑作中心の食文化です。
▼【表1】村明細帳から見た原七郷の主要作物(クリックで拡大)
江戸時代、原七郷の村に立ち寄った旅人の日記にも、畑作の麦や蕎麦を使った食べ物が登場します。山梨県立博物館の植月学さんによれば、甲斐国に来訪した宮崎県の修験者・泉光院(せんこういん)が、文化12年(1815)、下今諏訪村、在家塚村に立ち寄った際、村の人々から「蕎麦切り」や馳走として「当国の名物ハウタウ」が振る舞われたそうです(『甲州食べ物紀行 山国の豊かな食文化』)。現在山梨を代表する郷土料理の「ほうとう」も、日々の食卓だけでなく、古くから旅人の胃袋を満たしてきたのですね。
さらに村明細帳を見ると、主要作物として煙草や木綿が栽培され、農閑期に野菜や柿とともに、村外へ野売りされていたことがわかります。
『文政十一年(1828) 上八田村諸事明細帳写』
耕作之間ニ者男ハ煙草売、其外小商ひニ在町不限罷出申候
さらし柿之義ハ原七郷九ヶ村ニ限リ、国中野売・町在売ニ往古ヨリ仕来リニ御座候
名古屋大学の溝口常俊さんは、こうした原七郷の畑作と行商を研究し、柿や煙草、木綿などの行商活動が畑作を補い、村の生産力以上の人口を支えた大きな要因であったと考えています(『日本近世・近代の畑作地域史研究』)。
野売りの担い手は後に甲州商人と呼ばれ、その巧みな商法からマイナスなイメージで語られることもあります。しかし、地味の乏しい土地だからこそ、村の枠を飛び超えてビジネスを行う、たくましい風土を育てたとも言えます。ご先祖さまたちは厳しい自然と向き合いながら、知恵を絞り、外の世界へ活路を見出し、畑作物と行商のくらしを築き上げてきたのです。
では最後に謎かけをひとつ。
「原七郷で作られた柿」と掛けて「国指定重要文化財、江戸時代の古民家、安藤家住宅」と解きます。その心は? ヒントは本文中に。答えはまた次回。
[南アルプス市教育委員会文化財課]