松声堂とは、江戸時代に西野(現 南アルプス市)に創設された手習所です。
天保6(1835)年に西野村の長百姓幸蔵・佐次兵衛と、花輪村(現 中央市)の長百姓清右衛門(内藤家)が中心となり、市川代官所に手習所設立の申請を出して、翌天保7年(1836)に認可されました。
幸蔵たちが手習所の設立を思い立った理由については、市川代官所に提出された手習所創設願書に書かれています。
「当村は石砂入りの土地のため、皆畑場で田地はまったくない。畑作として粟、きび、ひえ、煙草、木綿などを作っているが、わずかな旱魃(かんばつ)でも飲み水にもさしつかえるほどの場所であるので、作間には渋柿をさらして野売りし、稲籾(もみ)などと取りかえて年貢手当てにする辺鄙(へんぴ)な村里である。去る天保4年凶作の際には難渋の小前百姓に施し物を与えなければならなかったほどの土地柄であるため、村内の子供や若い者たちに学問はもちろん日用の算筆を指南するものもなく、したがって、自らよろしからざる道に陥り、悪弊に染まり百姓相続しがたい者も生じ、嘆かわしい次第である。そこで西花輪村長百姓清右衛門と相談のうえ、西野村のうち芝間空地の場所に手習所を設け、教授に相当の人物を選んで、村内外遠近の若輩の者たちに手習・素読を教諭することにした。そうすれば作間にも学びやすく、人倫の道を習い公儀の法度(はっと)を遵守して放蕩(とう)無類の風に陥ることもなく、村役人や親の意見を用い百姓相続に励むようになって、年貢収納の差し支えもなくなり、村方取締りの基となる。 ―後略― 」
これを見ると、幸蔵をはじめとする村の人々は、子弟に対する教育がとても重要であることを認識しており、熱意をもって手習所の創設にあたったということが分かります。
こうして1年後の天保7(1836)年に市川代官所より許可がでて、西野手習所が開設されました。手習所の開設にあたっては、これが長く続くようにと、幸蔵をはじめとする、各村々12名から基金が寄せられ、総額140両のほか米4俵が集まり、これを希望者に貸し付け、その利子によって手習所を運営しました。そして手習所を永続させるため、西野村が維持管理を行い、後世に伝えるため、村が13か条にわたって誓約した連印帳を作成しています。
【写真・左】宝珠院
【写真・右】松声堂校地・校舎略図(白根町誌より)
校舎は、初めは宝珠院を仮校舎としていましたが、協力者の寄付によって、敷地1002坪に72坪の校舎が建てられ、天保10(1839)年に新校舎に移り、西野手習所又は松声堂と称します。学則なども整備され、近隣の村々のほか、遠くは釜無川以東から学びに来る者もいました。
【写真・左】松声堂校舎
【写真・右】昭和30年代終わりころの御殿飾り松声堂の学習風景
教師には、江戸下谷三味線堀生まれの、松井渙斎を迎え、漢学を中心に、習字、平仮名、数字などを教えました。創設から数年がたつと、経営が苦しくなりましたが、渙斎は自らの経費を節約して、勉学を教え続けたといいます。渙斎は13年間松声堂で指導しましたが、嘉永元年(1848)に高齢のため引退し、江戸へ戻り、安政元年(1854)に病没しました。
【写真】渙斎留別の碑
そして2代目の教師には、市川代官・小林藤之助の食客として市川陣屋に滞在していた宮浦東谷が就任します。
東谷は、塾生と起居飲食を共にする塾中制度を始め、一般門人の来ない朝、夕、夜に指導をしたり、村人のために年に数回の講演会を開いたりと、村人の教導にも努めました。また生徒の学業の完成を祈って校庭に天神社を祭りました。東谷は24年間教壇に立ちましたが、明治4年に病没しました。
【写真・左】天神社
【写真・右】宮浦東谷の墓所
松声堂は、明治4年に山梨県より許可がでて郷学校となりました。その後明治6年に西野小学校へと改変し、昭和44年には在家塚小学校と統合して白根東小学校となり現在に至っています。
農民が中心となって設立された手習所は県内では例がなく、県下における最初の庶民教育の場として、多くの人々の熱意により支えられてきました。
現在、松声堂の跡地には、松井渙斎の碑、松声堂跡の碑などが建立されています。
【南アルプス市教育委員会文化財課】