広大な御勅使川扇状地の扇央部を縦断する滑走路跡。主軸はまっすぐに北方の八ヶ岳の方向を向いています。これはこの地方特有の強い季節風、いわゆる「八ヶ岳颪(やつがたけおろし)」を意識したものです。滑走路幅は100m、長さは約1500mで大型機の離発着も可能な規模でした。
滑走路の南端は飯野の三宮神社(みつみやじんじゃ、通称おさごっさん)付近、北端は遥か御勅使川沿いの現在の県道甲斐芦安線と交差し、滑走路には飛行機を運ぶためのいくつかの誘導路が接続していました。
現在でもその痕跡を確認することができます(写真中央の方形の区画が滑走路の南端になります)。
滑走路南端付近の三宮神社は、御勅使川扇状地上の数少ないランドマークとして動員された地域住民の集合場所でもありました。
滑走路の南端付近は、浅い谷状の地形を埋め立てて造成されており、現在でも当時の盛土の様子をよくのこしています。滑走路の北端付近は、東側に傾斜する地形を切土して造成されました。
【写真・左】=滑走路南端付近の盛土。現在もその痕跡を明確に確認することができる
【写真・右】=滑走路北端の段差。住宅地の中、見過ごしてしまいそうだが傾斜した地形を切土した造成の跡が現在まで残っている
造成工事にはスコップや「ジョレン」などの道具を用いて行い、土の運搬は、「パイスケ」と呼ばれる天秤棒状の道具や「チョウセングルマ」と呼ばれた二輪の手押車やトロッコが活用されました。造成後はローラーによる締め固めが行われていた部分もあったようです。
【写真・左】=実際のロタコ工事に使われたジョレン。地域の方が保管していた
【写真・右】=パイスケ。滑走路の工事を体験した方が当時の様子を伝えてくれた
地域に残る資料や証言によれば、造成には釜無川西岸地域全域(現在の韮崎市の一部、南アルプス市および増穂町全域)の住民が少なくとも1日3000人、また、いわゆる朝鮮人労働者といった方々などが動員されたといわれています。
地域住民の本格的動員は昭和20年3月6日に始まり、作業は毎日午前7時に現地集合、7時30分より開始し、午前午後それぞれ15分の休憩と昼休みをはさみ午後5時までで「距離ノ遠近其ノ他ノ理由ヲ問ハズ出動時間ハ絶対厳守ノコト」とされました。若い男性がほとんど戦争にいっているため、動員され作業を担った多くは老人や女性などで、なかには赤ん坊を背負った女性や、農作業や土木作業などの経験がほとんどない都会から疎開してきた人もいたといわれています。
平成17年度に行われた発掘調査の結果からは、当時の人々が行った造成工事様子を垣間見ることができました。
造成の終わった滑走路では、山から採取してきた松葉などを敷き詰めたり、イモやマメの栽培を行ったりしてその存在を隠しました。松葉の採取については、もっぱら地元の源国民学校(現白根源小学校)の生徒が動員され、証言によれば、松葉は数日で枯れて赤く変色してしまうので数日ごとに新鮮な松葉を敷きなおす作業を強いられたそうです。
当時源国民学校の教師であった方の証言によれば、当時は毎日勤労奉仕などで授業はほとんど行わなれなかったそうで、山に松などの枝を取りに行った山中で、本来は禁止されていたけれど、「子供たちのためを思って国語と算数だけは」隠れてこっそり教えたのだそうです。
滑走路は、終戦前に数回、終戦後米軍が調査のために一度降り立ったほかは、ほとんど使われることはありませんでした。まさに幻の飛行場であったわけですが、御勅使川扇状地に残るその痕跡は、現代に生きる我々に六十数年前の人々の苦労を伝えてくれています。
【南アルプス市教育委員会文化財課】