前回ご紹介した信玄伝承の治水施設の中で、今回のふるさとメールでは「石積出」をご紹介します。
石積出は御勅使川扇状地上流に築かれた石積みの堤防です。現存する1~5番堤のうち、1~3番堤が将棋頭とともに国の史跡に指定されています。信玄が工事を命じた伝承が伝えられていますが、戦国時代の史料に「石積出」の記述がなく、いつごろ造られたのかはわかっていません。
絵図や史料から少なくとも江戸時代には造られ、有野の集落や水田だけでなく、さらに下流の21もの村々を守る役割を果たしていました。石積出を含めた有野村の堤防が決壊すると、小笠原村や寺部村など遠く離れた人々の生活にまで御勅使川の被害が及んだのです。このため有野村は堤防補修工事の際に、下流の21ヶ村から人手を促す権利を幕府から許されていました。
江戸時代が終わり、明治・大正時代に入ってもその重要性は変わりませんでした。
駒場浄水場内にある石積出4番堤の発掘調査によって、石積出に近代のさまざまな技術が用いられていることがわかりました。
堤防の土台には丸太を梯子状に組んで、堤防が沈まない工夫(梯子土台)が施されています。堤防の川表側には80cmもある石が積み上げられ、隙間はコンクリートで固定されています。堤防の川表側基底部には木枠を組み、その中に石を詰めて堤防の根元が水流に洗い流されるのを防ぐ施設(木工沈床)が造られていました。木工沈床のさらに川表側には、鉄線を編んで中に石を詰めた蛇籠が縦に並べられ、御勅使川の水流が堤防に直接当たるのを防いでいました。
コンクリートや鉄線蛇籠、木工沈床は明治時代以降、大正時代の技術であり、現在私たちが目にする姿は、明治・大正期の姿と考えられます。
こうした何重にも重ねられた護岸の構造を見ると、いかに増水時の御勅使川が激流であったかが伺えます。石積出は幾百年もの間、激流から人々のくらしを守り続けた御勅使川扇状地の生命線とも言える堤防なのです。
【写真上段】
(左)梯子土台
(右)石積出4番堤
【写真中段】
(左)石積出4番堤 全景
(右)巨摩郡下条南割村差出絵図(年不詳 山梨県蔵) 石積出が御勅使川扇状地の村々を守る状況がわかります
【写真下段】
(左)石積出4番堤 木工沈床
(中央左)石積出4番堤 木工沈床 木材を固定するボルト
(中央右)石積出4番堤 蛇籠
(右)調査風景
【南アルプス市教育委員会文化財課】