前回、大井信達の文化人としての一面を紹介しました。このような教養を持った父に育てられたのが大井夫人です。大井夫人は子供の教育につとめます。長男・晴信は和歌に、三男・信廉は肖像画等でその力を発揮しました。今回のふるさとメールは、大井夫人を紹介します。
大井夫人は信虎のもとに嫁ぎ、それにあわせるように甲斐の国は信虎の下、統一へ向かいます。大永元年(1521)、甲斐に攻め込んだ今川氏を飯田河原で破り、ちょうどこの時、大井夫人は積翠寺要害城で晴信を産みます。その後、次男信繁、三男信廉を産み、三男一女の母親となります。
大井夫人は子供たちの教育に心を砕き、幼い晴信を教育するため、晴信の手を引いて甲府から釜無川を越えて鮎沢にある長禅寺(後の古長禅寺)に足を運び、岐秀禅師から学問や兵法を学ばせたと、地元では伝わっています。大井夫人の帰依する岐秀禅師は、晴信出家の際、機山信玄の法号を与えており、晴信の人生に深く影響を及ぼした人物の一人です。
甲斐国志によると大井夫人は信虎が駿河へ追放された後も甲府に留まり、出家して躑躅ヶ崎館の御隠居曲輪に住んだと伝えられます。
大井夫人を通して信達の血は、信玄に受け継がれました。
戦国武将としてのイメージの強い信玄ですが、歌を好み自邸などにおいて盛んに和歌会や連歌会を開催していることが「為和集(ためかずしゅう)」にもあり、詩歌も収録されています。永禄2年(1559年)には、信玄直筆の和歌百首が若草地区法善寺に納められました。その中には切ない恋心をつづった歌もあります。原本は文化8年(1811)に庫裡の火災のため焼けてしまいますが、焼ける直前に書き写された写本が現在に伝わっています。
三男信廉は逍遥軒とも呼ばれ、武人画家として特に人物画で才を発揮し、一周忌に当たる天文22年(1553)、母の「武田信虎夫人像」を長禅寺へ納めています。温かみのある夫人像からは母への思いを感じさせ、信廉の人柄が伝わってくるようです。
こうして大井夫人は信玄、信廉を戦国武将として、さらには文化人として立派に育て上げます。2人の文化人としての教養は父信虎というよりも母の教育、外祖父信達という大井氏の血のなせるわざと言えるかもしれません。信玄の母、大井夫人は天文21年5月7日、55歳で没します。墓は生まれ故郷の古長禅寺、信玄が甲府に建てた長禅寺の2ヶ所にあります。
【南アルプス市教育委員会文化財課】