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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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【連載 今、南アルプスが面白い】

市内に広がる曽我物語の世界 その2

 前回は曽我兄弟の仇討ちを描いた「曽我物語」をご紹介しました。今回は「曽我物語」の登場人物と南アルプス市とのかかわりに迫ります。

◆悲劇のヒロイン 虎御前

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【図版】歌川広重「曽我物語図絵」

 曽我兄弟の兄・十郎の恋人として登場する虎御前は、大磯の長者の娘で、後に成長して街道一の美女と言われる遊女となりました。この虎御前、芦安地区の伝承では相模(さがみ)生まれではなく南アルプス市芦安安通(あんつう)の生まれで、縁あって大磯にある長者の養女となったと伝えられています。実際に芦安には次のような虎御前にまつわる伝承や史跡が残されています。

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(左)虎御前の鏡立石
(右)伝曽我十郎の木像と伝虎御前の木像

 大磯で十郎の訃報を聞いた虎御前は、その悲しさのあまり19歳で尼となり、兄弟の菩提をとむらうため信濃善光寺に向かいます。その旅の途中、生まれ故郷の安通村へ立ち寄り、村人から住まいを与えられ、その親切に感謝しながら追善供養を続けたといわれています。曽我氏や虎御前を祀る安通の伊豆神社近くには、虎御前が鏡を立てて化粧をしたという「虎御前の鏡立石」を今でも見ることができます。一方、芦安地区大曽利(おおぞうり)の諏訪神社には、伊豆神社から移された御神体、曽我十郎と虎御前と伝えられる2体の木像が納められています。
 虎御前が芦安出身であるかどうかは定かではありません。しかし、芦安の民宿で出されるお弁当やバレーボールのチーム名となるなど、芦安地区の人々にとって虎御前は親しみやすいヒロインです。

◆悲運の武士 御所五郎丸

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後ろから五郎を取り押さえる五郎丸
【図版】歌川芳員(よしかず)「建久四年五月廿八日富士裾野曽我兄弟夜討本望之図」

 将軍頼朝を目指す兄弟の弟・曽我五郎。誰にも止められなかった勢いの五郎を取り押さえ、頼朝を守ったのは頼朝を警護していた御所五郎丸でした。しかし、功をあげたにもかかわらず、五郎丸は五郎を捕まえる際に女装して油断させた行為が武士道に反するとして鎌倉を追放されました。そして流された地が南アルプス市野牛島(やごしま)地区と地元で伝えられています。

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(左)野牛島の観音堂とビャクシン
(右)鎌倉御所五郎丸の墓

 現在、野牛島集落に建つ観音堂には五郎丸の肌守りと言われる地蔵菩薩の木像が祀られ、お堂の傍らには五郎丸の墓が建てられています。観音堂前のビャクシンは、五郎丸が突いた杖が成長したとの言い伝えもあります。虎御前と同じように五郎丸も地元の人々から慕われ、毎年7月23日、野牛島地区の人たちによって五郎丸を供養するお祭りが開かれています。
 ちなみに「曽我物語」の一番古い形とされる真名本(まなぼん)や「吾妻鏡」(あずまかがみ)には、五郎丸が女装した記述は見当たりません。主役である曽我兄弟の活躍を際立たせるために、女装は後から加えられたエピソードなのかもしれません。

◆そしてもう一人 甲斐源氏の雄小笠原長清

 捕らえられた五郎の尋問に立ち会う幕府の重臣達の中には、櫛形地区小笠原に館をかまえた甲斐源氏小笠原長清も参列していました。仇討ちを果たした弟・五郎の姿は、長清の瞳にはどのように映ったのでしょうか。

 曽我兄弟の討ち入りは旧暦の5月28日、新暦ではちょうど今頃、6月下旬の梅雨の時期に当たります。後世の人々は、その頃に降る雨を十郎の死を悲しむ虎御前の涙と重ねて「虎が雨」と呼び、俳句の季語にも使われています。しっとりと降る「虎が雨」を感じながら、市内に広がる曽我物語の世界を訪ねてはいかがでしょうか。

 

(図版)小田原市正眼寺蔵

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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