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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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【連載 今、南アルプスが面白い】

小正月の風物詩 下市之瀬の獅子舞(下)

 前号で、今も小正月で舞われている下市之瀬の獅子舞(県指定無形民俗文化財)の様子をご紹介しました。この獅子舞は、現在南アルプス市内で舞われている獅子舞ではもっともその歴史を遡ることができ、今も活発に活動が行われています。また、その記録が良く残されているのが特徴で、今号ではその記録も紐解きながら、下市之瀬の獅子舞についてさらに詳しくみていきましょう。 


雌獅子

 下市之瀬の獅子舞は女獅子が特徴で、腰を落として着物がはさまるくらいに膝をつけて舞うのが基本と言われています。かつては膝に紙を挟んで狭い碁盤の板の上で動作の稽古をしたという話も伝わっています。その上で上体の振りを大きくして舞台いっぱいに舞うのが名人芸と言われています
 道祖神場やムラマワリなどで舞う基本的な舞として「幕の舞」と「梵天舞」さらに「梵天舞」の簡略形である「十二支舞」があります。アトンメー(後舞)が後ろで幕を持ちますが、これには、区の役員さんが加わったり、子供たちが加わることもあります。


太神楽の獅子舞

 下市之瀬の獅子舞の特徴としてはなんと言っても「八百屋お七」や「梅川忠兵衛」という「獅子狂言(芝居)」の存在です。「段物」とも呼ばれるものます。
 これは太神楽の一つで、山梨県は太神楽系の獅子舞が多い地域と言われています。特に国中地域の獅子舞は、道祖神祭りと結びついて小正月行事の一環として舞われるところが大きな特徴と考えられていて、下市之瀬をはじめとする南アルプス市内の獅子舞もまさにその傾向の通りです。
 山梨県内の獅子舞にはかつては上記のような獅子狂言や、「鳥刺踊」「万才」などのいわゆる余興(下市之瀬ではかつてこれらを「道化」と呼んでいる)がさまざま演じられていたと考えられていますが、ほとんど伝承されず、獅子舞だけが伝わるケースがほとんどです。そのような中で、「八百屋お七」や「梅川忠兵衛」という2種類もの獅子狂言を、しかも高いレベルの芸として伝承していることは非常に貴重なことと評されています。しかも現在では「三番叟」も受け継がれ、披露の場でも復活しており、これは山梨県内で唯一ここだけと言われています(市内では西南湖でも獅子狂言の2種を行っていますが、下市之瀬から継承したものと言われています)。

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【写真】梅川忠兵衛の一コマ。成人者を祝う会での披露

 

下市之瀬の獅子舞の歴史は古い!

 実は下市之瀬の獅子舞は江戸時代中期の享保年間(1716~1736年)に、当時の農村の若者たちの間に広まっていた風俗の乱れを改めるために、敬神と娯楽を兼ねて獅子舞を始めたと伝わります。
 少なくとも安政3年(1856年)に書かれた史料の存在によって、江戸時代には獅子舞が舞われていたことは確実と言えます。安政3年正月に下市之瀬の若居者別当三千助によって書かれた「定書目録」で、この地域の若居者が順守すべき定書の中に、獅子舞や道祖神祭に関する条項があるのです。抜き出してみましょう
 
 一 神楽祭礼飾道具并に獅子道具等相互に吟味し、賃物に入れ申間自敷候事 
 一 正月五日六日頃より獅子舞稽古相始め、炭油迄用意可致候事
 一 同月七日亦は十一日迄に道祖神飾可致、尤も村中罷り出、手伝可致候事
 一 同月十四日夜祝儀新宅祝仕り候、其之節は一同罷出、獅子を舞ひ可申御札相納、同月十五日村中軒別夫の獅子を舞ひ配札可致、同日道祖神金元利取調、帳面へ印し可申候事

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 【写真】定書の一部(写)

 これらから、正月の5、6日頃から毎晩獅子舞の稽古を行ったこと、道祖神の飾り付けは7日かあるいは11日までに若居者を中心として村中の人が手伝って行ったこと、14日の夜は新婚、新築などの祝い事があった家に一同で出向いて獅子舞を賑やかに演じたこと15日にはムラマワリをしていたことなどがわかります。この「定書目録」によって江戸時代末期の安政3年には獅子舞が下市之瀬にしっかりと定着して、道祖神の主要な役割を果たしていたことがわかります。なお、現在この史料は所在不明ですが、昭和29年3月に書写したものが現存しています。

 

青年永盟社と獅子舞

 下市之瀬の獅子舞を語る上で切り離せないのが、「下市之瀬青年永盟社」の存在です。明治20年に活動の発展を図って、「祝祭世話係」という若者組織の名称を改称し、「下市之瀬青年永盟社」(以下、永盟社とする)が設立されました。昭和34年頃に永盟社が解散するまでこの永盟社のメンバーが獅子舞を継承していました。
 永盟社は様々な活動の記録を残しているため、当時の購入したものや日々の活動、メンバー構成などを伺うことができます。
 昭和14年に作成された「記録簿」を見てみますと、おおむね先ほどの定書にあった記載と同じような正月の様子が見え、獅子舞や各舞諸芸の稽古は、各部門の主任から候補者が指導を受けるというシステムを取っていた様子がわかります。
 小正月の流れは、14日は夕方どんど焼きに点火すると同時に道祖神場で獅子舞を奉納し(これは現在もまったく同じ)、その後祝い事のあった家を巡り、その後会場の舞台で獅子舞や諸芸を演じたようです。15日にはムラマワリをして獅子舞を舞い、16日夜の「日待祝」、17日の敬老会にも諸芸を演じています。当時は女子青年部もあって諸芸は一緒に披露していたようです。20日には朝から道祖神祭りの飾りを片付けを行い、外された梵天は各戸に配布されています。この辺りも現在も同じように受け継がれていることがわかります。
 この当時に伝承されていた演目を見ますと、「獅子舞」、「梅川忠兵衛」、「八百屋お七」、「三番叟」、「鳥刺踊」、「万才」、「お亀・神主」、「七福神」などがあったようです。
 

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【写真】記録簿の表紙(写)

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【写真】記録簿の中の昭和15年の「舞台上演者」の項。「梅川忠兵衛」、「三番叟」、「鳥刺踊」、「万才」などの演目が見える。

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【写真】同じく中を読むと、獅子舞神楽という表記が随所に現れ、当時そのように認識していたことが良く分かる

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【写真】昭和12年の獅子舞の稽古の様子を伝える山梨日日新聞の記事
 
 前号の最後にご紹介した舞台幕、中央に獅子が描かれ、向かって左端に「青年永盟社さん江」とあります。写真では見えにくいですが、その下にある落款から、今も古市場にあります老舗、井上染物店さんで染められたことがわかります。今となっては市を代表する伝統同士のコラボですね。この幕も昨年補修を施し、今も大切に使われています。この幕の作成された年代は実は判明していません。下の方に商店名がいろは順に並んで位おり、小笠原地域を中心とした周辺の商店等が贈ったものと考えられます。現在少しずつ「記録簿」を調べ直していますので、購入のいきさつなどが判明できればと考えています。
 昭和34年に山梨県郷土芸能大会にて舞を披露しますが、この年に永盟社は解散します。翌35年に下市之瀬獅子舞保存会が結成されるのです。ここからは、前号でもご紹介した通り、現在の活動へと受け継がれていきます。

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【写真】舞台幕

 

まとめにかえて

 下市之瀬の獅子舞は、かつての太神楽の獅子舞を高い水準で色濃く伝えている獅子舞と言えます。また、現在もコミュニティの中心として活発に活動をしていることとともに、「定書目録」や「下市之瀬青年永盟社」のように、継承の経緯や背景が明確に残されていることが大きな特色と言えます。このような史料が揃っているのは貴重な存在です。記録とともに伝承するということは非常に大切なことであることが、保存会の資料から読み取ることができます。
 前号から2回にわたり、下市之瀬の獅子舞についてご紹介しました。小正月に係る地域の行事であるとともに、この伝統を担う方々の存在は地域らしさを語る存在でもあることが見えてきました。文化財課が進める「ふるさと○○博物館」では、このような地域らしさを語る史料群を整理し、読み解き、大切に未来へ伝えていきたいと考えております。また、いずれご報告しいたします。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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