南アルプス市鏡中条から下今諏訪、上今諏訪を経て徳永に向かって、県道118号 南アルプス甲斐線をのぼっていくと、西側に道に並行して走る崖線を見ることができます。このあたりで確認できる高さは最大で13mほど(写真1・2)。
実はこの崖線、西から迫る御勅使川扇状地を釜無川の洪水流が東から侵食してできたものなのですが、その存在は、現在はこの崖線から約500~800m程東に河道の中心がある釜無川が、かつてこの付近を流れた時期があることを示しています。
【写真1・2】御勅使川扇状地東端部の崖線
では、この崖線の形成時期は、いったいいつ頃なのでしょう。答えは、江戸時代に編纂された地誌である『甲斐国志』や鏡中条にある巨摩八幡宮(写真3)の『社記』から、推測することができます。
【写真3】巨摩八幡宮
『甲斐国志(抜粋)』:八幡宮 鏡中条 ~当初ノ祠ハ釜無川ノ内ニ在リ 今ニ其処ヲ神宮司河原ト称ス 天文年間坂上ニ遷セシガ 其ノ地復タ欠ケ崩レシ故 慶長年中今ノ地ニ移スト云フ~
『甲斐国志(抜粋)』:鏡中条村 ~今ノ村居ハ皆釜無ノ河難ヨリ移リタル所ト云フ~
『甲斐国社記・寺記(抜粋)』:広幡八幡宮(巨摩八幡宮) ~ 天文年中釜無川切込社頭神領不残流失仕候 数十戸之社人不残離散仕候由 于今其所を神宮寺河原ト申候 同暦十三甲辰年八幡宮を坂之上江引勧請仕候 其後慶長年中又々釜無川切込社地も段々欠込候故 同暦十七年壬子年御旅所之社江引勧請候~
これにより、巨摩八幡宮と鏡中条村は、もともと、現在の位置からはるか東の釜無川河道付近にあったものが、天文年間(1532~1555)の水害で流され、天文13年(1544)に高台であった御勅使川扇状地上の字(あざ)八幡というところに移転した。しかし、そこも釜無川の水流によりだんだんに浸食され、慶長17年(1612)現在の集落のある位置に再移転を余儀なくされたことがわかります(図1)。
【図1】崖線の位置と鏡中条村の移転
天文年間以降、それまで東を向いて、鏡中条方向には向いていなかったであろう釜無川の流路が、南に向くように変わり、永禄3年(1560)頃と推定されている竜王(甲斐市)の信玄堤の構築により、おそらくその傾向は確定的なものとなり、その後の慶長年間の再移転へつながったのでしょう。釜無川の主要な流れのひとつが、戦国時代から、少なくとも江戸時代のはじめ頃、御勅使川扇状地の東辺を侵食するように流れていた可能性が高いことがわかります。釜無川の主な流路は、信玄堤の構築とその後の治水事業により、一般に東流路から、中央流路、西流路へと変遷したことが知られていますが、これ以外にも、現在の南アルプス市域に向かう流路があったことが示唆されます。
【図2】釜無川河道の変遷(概念図/アニメーション)
ちなみに、鏡中条が最初に移転した八幡の字名は、現代にも継承されており、断崖の際にあるその位置を知ることができます(写真4)。
普段、何気なく通りすぎてしまう風景の中に、鏡中条地域の流転の歴史を見ることができました。
【写真4】鏡中条村がまず移転した字八幡付近の現在
なお、図3に示す通り、この崖線、実はさらに北に続き、市域北辺の野牛島地区にまで続くことがわかりますが、その軸は、南アルプス市徳永付近を境になぜか、途中食い違っています。
じつは、この食い違いは、崖線の形成時期の差によるもので、徳永から野牛島にかけての崖線上には、崖線上というロケーションを意識して占地したと推定される、今から3500年程前の縄文時代後期の集落が発見されていることから、それ以前の時期に形成されていた可能性があります。その後釜無川の流路が変わって、釜無川の侵食を受けないようになると、西から東へ再び御勅使川扇状地が成長しますが、天文年間以降また釜無川による侵食を受けるようになって、このような地形になったものと推定されます(図3のアニメ参照)。
【図3】 食い違う崖線
【図4】 崖線が食い違う理由(アニメーション)
この侵食崖線のずれは、扇状地性の河川である釜無川の河道が、自然の力で、時に武田信玄をはじめとする人間の力によって、数千年のスパンで、その流れを変遷してきたことを我々に教えてくれます。
【南アルプス市教育委員会文化財課】