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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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2016年3月

【季節の便り】

今年度もあとわずかです

新年度に向けなんとなくせわしく、落ち着きがありません。
昨日は、朝から雨。
寒い一日となりました。
山沿いは、雪になったようで今朝の山々は、中腹まで雪がかかっていました。
春が待ち遠しいです。

 

南アルプスユネスコエコパーク
プロモーションビデオができました

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 南アルプス世界自然遺産登録山梨県連絡協議会(韮崎市、南アルプス市、北杜市、早川町)では、南アルプスユネスコエコパーク山梨県エリアのプロモーションビデオを製作しました。
 ダイナミックな南アルプスの山々だけでなく、里山の風景や夜祭りなど豊かな自然を題材にステキな映像で紹介されています。
You Tubeで公開されていますので、ぜひご覧ください。
映像は、Mountain(山)、Culture(暮らし文化)、MiX(山と暮らし)の3部構成になっています。
 こちらからご覧ください。
※You Tube検索ワード 「南アルプスユネスコエコパークチャンネル」

[南アルプス市役所 秘書課]
「広報 南アルプス」はこちらから

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市を駆けた武田家臣団 その2

■跡部勝資(あとべかつすけ)
 
 大炊助(おおいのすけ)の官途名で知られる跡部勝資(生年不詳)は、信玄、勝頼の二代にわたって、主君の間近に側近として控え、外交、内政ありとあらゆる分野に関わった官僚といわれています。
 このことは、武田氏家臣団の中で、最も多くの朱印状を奉じていることからもうかがえます。この当時、当主である信玄や勝頼への訴えに対する証文や裁定は、直接当主の名で行うのではなく、当主の意を受けた「取り次ぎ者(奉者)」が、武田家の公印である「竜朱印(竜をかたどった印鑑)」とともに「○○奉之(奉者名これをうけたまわる)」と記して、奉者の名で出されることが普通でした。
 

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【写真】奉書式朱印状の例  永禄11年(1568)甲斐善光寺の金堂建設のための木材を天神宮の森から伐りだすことを認めたもの。武田家の竜朱印とともに「跡部大炊助奉之」とみえる。(善光寺文書 『山梨県史』所収)

 
 勝資が奉者となった朱印状は確認されている限りで、現在200通を超え、総数で約150通が知られる2位の土屋昌続を圧倒しており、勝資の家臣団における位置を知ることができます。また、『甲陽軍鑑』によれば、勝資は侍大将として300騎を率いたとされますが、この数は譜代家老衆は春日虎綱に次ぎ、山県昌景とともに2番目の数です。
 もっとも、奉者となった朱印状の数は、信玄期では土屋昌続の方が多かったことが知られ、勝資は勝頼の時代なって、より重用された側近であることがわかります。その朱印状奉者としての独占的ともいえる地位を得た背景としては、武田氏の領土拡大にともなって有力な側近層が城代として転出したことや、土屋昌続が天正3年(1575)長篠の戦いで戦死ことなどにより、甲府における側近の顔ぶれが限定されたことなども指摘されています。
 
 このような中、上杉氏との同盟構築を持ちかけられた際、すでに北条と同盟を結んだとして独断でこれを拒絶したばかりか、条件が以前と変らないため信玄・勝頼に披露するに及ばない、とまでいって言い切ったエピソードが伝えられており、このような独占的立場から、他の譜代の家老衆とは対立があったとも伝えられます。
 そのためでしょうか勝資が長篠の戦いで主戦論を唱え、これが大敗を招いたとか、天正10年(1582)武田家滅亡の際、実際は、勝頼に従って討死した可能性が高いのですが、途中で逃亡したのだとか、余り芳しくない話が記される史料も多くみられます。
 
 勝資は当時、現在の南アルプス市大師周辺に所領を有していたと推定されており、江戸時代の地誌『甲斐国志』には、了泉寺(りょうせんじ)の項に「跡部大炊介屋敷迹ヲ為寺ト云」とみえ、現在の了泉寺がその屋敷跡と伝えられています。また、了泉寺の南東約350mに位置する宮沢の深向院(しんこういん)は、真言宗であったものを、勝資が曹洞宗寺院として再興したものといわれています。
 

 

【写真】勝資の屋敷跡と伝えられる了泉寺
平成28年2月、南アルプス市教育委員会は、勝資と南アルプス市とのゆかりを示す説明板を了泉寺に設置した。(南アルプス市大師587)
 

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【写真】勝資が再興した深向院
本尊釈迦如来坐像(県指定)は、南北朝時代の作。勝資も拝んだことでしょう。(南アルプス市宮沢1172)
 
 なお跡部氏は、現在の南アルプス市小笠原周辺に拠点を持った、甲斐源氏小笠原長清の孫、長朝が、信濃国佐久郡跡部(現在の長野県佐久市跡部)に拠って名字の地としたことに始まるとさています。その後甲斐国に入り、勝資の父、祖慶(そけい『甲斐国志』および菩提寺である攀桂寺の記録では名を信秋とする)の頃には武田氏の家臣として甲府盆地北部の千塚周辺に所領をもったようです。
 菩提寺である甲府市千塚の攀桂寺(はんけいじ)には、祖慶夫妻および息子勝資の位牌が納められています。背面に「元禄十四辛巳年 十月日 跡部宮内源良顕 施主」と見え、元禄14年(1701)に子孫である跡部良顕が奉納したものであることがわかります。良顕は、徳川幕府の旗本で、神道家としても知られる人物です。なお祖慶の位牌の背面には、「小笠末葉」ともみえ、これが「小笠原氏の末葉」の意であるとすれば、やはり南アルプス市域に源を発する始祖小笠原とのゆかりは、記して誇るべき出自だったのでしょう。
 

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【写真】跡部家の菩提寺と伝えられる攀桂寺(甲府市千塚4-2-29)

5 【写真】跡部勝資の位牌(攀桂寺)

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【写真】跡部祖慶とその妻の位牌(攀桂寺)
祖慶の位牌の背面には「小笠末葉」と記される
 
【参考引用文献】
柴辻俊六編2008『新編武田信玄のすべて』
柴辻俊六ほか編2008『武田氏家臣団人名辞典』
平山優・丸島和洋編2008『戦国大名武田氏の権力と支配』

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【季節の便り】

卒業シーズン

人生のひとつの節目でもある卒業。
3月1日の今日は、市内の公立高校で、卒業式が挙行されました。
卒業される皆さんには、今までの出会いに感謝し、1度きりの人生を悔いのないように歩んでほしいと思います。
 

若宮神社神楽奉納百周年記念誌

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 若宮八幡神社(甲西地区)では、古くから毎年10月の第一土・日曜日に祭典が行われ、神楽が奉納されてきました。
これは、毎年二百十日あたりに雨や嵐によって農作物への被害があるため、氏子である農民が神の御加護を得たいとはじまったものです。
 このたび、神楽奉納100周年を記念して「若宮神社神楽奉納百周年記念誌」が発行されました。
 祭典の様子は、こちらをご覧ください。

お問合せ/若宮神社神楽奉納百周年記念誌実行委員会
 佐久間さん TEL:055(282)1372  携帯:090-7405-1214
 

安藤家のひな祭り

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 100年の歴史をもつ重要文化財安藤家住宅で、地元住民から寄贈された雛飾りや小笠原流礼法の節供飾りを展示する、安藤家の雛祭りが始まりました。
 江戸時代後期から昭和の彩り豊かな雛飾りを展示していて、時代ごとにそれぞれの特徴を見て楽しむことができます。
 詳しくは、こちらをご覧ください。

開催期間
 日(月)まで
 午前9時~午後4時30分
 ※入館は午後4時まで
 ※休館日 火曜日(祝日は除く)、祝日の翌日
場  所
 重要文化財安藤家住宅(南アルプス市西南湖4302)
入 館 料
 大人(大学生以上)300円、子ども(小中高生)100円
 団体(20名以上)の場合は大人240円、子ども80円
 
お問い合せ
平 日 教育委員会文化財課 TEL055-282-7269
土日祝 重要文化財安藤家住宅 TEL055-284-4448

[南アルプス市役所 秘書課]
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