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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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【連載 今、南アルプスが面白い】

水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ)(最終回)

1.強制執行
 大審院(現在の最高裁判所)において勝訴が確定したことを受けて、鏡中条村はこの訴訟で支払いを求めていた水防費に、これまでの訴訟費用等を合わせた賠償金を、飯島、藤田両弁護士に手続きを委託して請求します。

 
 請求に際して当初、藤田弁護士は本訴訟の共同訴訟という性質から、請求は連帯にせず、相手方各自に平等に要求しなければならないとの考えを示しました。しかし、そのためには請求額の決定通知を200通以上作成しなければならない上に、多くの村人からそれぞれに賠償金を取り立てる事務は困難を極めることは明らかです。かつて再審開始時に、被告各個人への訴状送付に甚大な労力を要した悪夢がよみがえります。当然村側はこれに強い難色を示し、連帯訴訟なのだから南湖村の有力者一部に代表して請求することを主張して対立します。結局は鏡中条村側が自らの主張を押し切り、裁判所もこれを認めたことから、南湖村の有力者2名に代表して賠償金の支払いを求めることに決まりましたが、ここでまたしてもいたずらに時間を要してしまいました。

 
 その後ようやくの南湖村側への賠償の請求。しかしさらに一波乱。南湖村側がその支払いの延期を求めてきたのです。史料にはこのあたりの経緯が余り詳しくないのですが、どうものらりくらりとかわされてしまった感がうかがわれます。
 そこで、鏡中条村としては、この期に及んでなお猶予すべき理由なしと、やむなく強制執行の手続きに入ります。

 
 明治26年9月1日。裁判所の許可を得た執行人が鏡中条村の側の立会人とともに南湖村を訪れ、先に村長でもあった旧西南湖村の有力者、安藤由道宅を訪れ、旧西南湖村分の請求額に相当する「債権者住居西北隅土蔵ニ貯蔵シ置キタル籾(もみ)俵四百俵」を封印し、差し押さえました。ちなみにこの舞台となった「債権者住居西北隅土蔵」は、現在重要文化財安藤家住宅の一部として保存され、一般に公開されている安藤家住宅の「南蔵・北蔵」にあたります。
 翌2日には、同じく旧和泉村の有力者であった大木親宅において同様に和泉村分請求額に相当する籾俵170俵を差し押さえ、それぞれ来る10日競売に付す旨通告しました。
 ことここに至り、南湖村は支払いを承諾。明治22年9月の水防に端を発し、丸4年に及んだ全村を巻き込んでの訴訟はついに収束したのです。

 
2.その後の顛末
 
 訴訟の収束から14年後、地域の人々の水防の努力によって保たれてきた将監堤ですが、ついに決壊します。山梨県史上名高い明治40年(1907)の水害です。
 水防費分担金訴訟では、南湖村が自村には関係ないと主張していたはずの堤防の決壊は、鏡中条村はもちろん、南湖村を始めとする釜無川西岸域の村々に壊滅的な被害を及ぼしました。南湖村の報徳社には、この時の水害時の被害状況を記した「水害図」が残されています。これを見れば、南湖村の中央を釜無川の洪水流が押し流し、村全域が壊滅的な被害を受けたことがわかります。やはり、将監堤の存在は南湖村域の衰亡とは切っても切れないものであったことが証明されてしまったのでした。

 
 その水害図に、冒頭次のような言葉が記されています。
 今から80年前、将監堤が決壊して甚大な被害がでた。その後年月が経って「人皆公ヲ棄テ 私ニ徇(したが)ヒ 唯恬安(てんあん)無事ヲノミ是謀リシカハ」明治40年又氾濫し、凄惨を極めることとなった。後の人よ、これを見て哀れむのではなく、戒めとしてください。
 明治40年の80年前、それは文政11年(1828)の水害を差します。奇しくも今回有効性の是非と問われた将監堤水防組合の改組の契機となった水害です。この水害をきっかけに、享和3年に締結された将監堤の水防組合が改組され、鏡中条、藤田、西南湖、和泉の4か村共同で水防を行うことが決まったのでした。
 その後、60年余りを経た明治22年、その後氾濫のなかった将監堤の重要性は忘れさられ、村と村とを巻き込んだの大きな訴訟となりました。明治40年水害は明治26年に水防費分担金訴訟が収束して14年後。村と村が激しく争い、その村人個々人が原告・被告となったその記憶は、人々の中になおまだ残っていたことでしょう。そのことに鑑みるとき、水害図に見える、「人皆公ヲ棄テ 私ニ徇(したが)ヒ 唯恬安(てんあん)無事ヲノミ是謀リシカハ」という言葉は、深い意味をもって我々の心に響いてきます。当たり前ですが、災害は繰り返すものです。ここで紹介してきた訴訟や、南湖村の水害図は、繰り返される水害を「忘災」せずに「防災」していなかければならない。そんな戒めを我々に教えてくれているのではないでしょうか。南湖村の人々の間からは100年を待たずして、災害の記憶は薄れてしまいましたが、我々も決してこれを笑うことはできません。これは我々にとっても教訓とすべき史実なのです。

 
 なお、本訴訟の問題は、あくまで村と村との問題ではあったわけですが、その背景には明治の黎明期にあって、河川・用排水路に関する工費を民間に頼らざるを得なかった明治新政府の脆弱な経済基盤や旧河川法成立以前の制度的混乱も見え隠れしています。これについては、またいつか筆を改めて記してみたいと思います。(おしまい)

 
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【写真】差し押さえの舞台となった重要文化財安藤家北蔵・南蔵

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【写真】「明治四十年八月廿五日将監堤決壊之惨景翌年四月十八日撮影」明治40年水害の状況。堤防が決壊し、耕地一面流入した砂礫よって埋没している。(南アルプス市蔵)

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【写真】南湖村水害図(西南湖報徳社蔵)

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【写真】南湖村水害図(部分)

  

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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