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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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2012年9月

【季節の便り】

真夏日、史上最長を記録

 いつまで続くのか-とうんざりするような暑い日が続いています。関東近県で取水制限というニュースを聞き、水不足も心配されます。
 幸い御勅使川扇状地の上にある南アルプス市の果樹園では、かんがい用水の事業で整備されたスプリンクラーが、乾いた畑に十分な水をまいています。この地で育った果物は甘くてジューシーで、サクランボからブドウ、柿、キウイと多くのファンがいます。

 県民の森伊奈ヶ湖には合併前の櫛形町の時代から白鳥がいました。その白鳥の世話を担当しているのが櫛形西小学校の子どもたちです。子どもたちは白鳥に与えようと、地域の協力を得て籾(もみ)や白菜などを集めていますが、ここ数年、白鳥は1羽だけになっていました。こうしたなか「さみしそうなのでなんとかしてあげたい」という子どもたちの願いがかない、山中湖から西小学校に2羽の白鳥が届きました。
 白鳥は「白丸」「白姫」と名付けられ、子どもたちの手で伊奈ヶ湖に放されました。
 湖面を優雅に泳ぐ白鳥を見守る顔は、みんな笑顔でした。

白鳥の世話を担当している櫛形西小学校の生徒 白鳥の世話を担当している櫛形西小学校の生徒
「白丸」「白姫」と名付けられ白鳥 「白丸」「白姫」と名付けられ白鳥
【写真】櫛形西小学校の子どもたちと「白丸」「白姫」と名付けられ白鳥

 市長が市政について語る「市政説明会」が9月上旬からスタートし、11月上旬まで26会場で開催されます。合併10年を迎えるにあたり、公共施設の再配置計画や財政の状況、国の地域活性化総合特区の指定を受けたこと、農林業の六次化による「元気なまち」づくりへの市民の協力を呼び掛けるなど、市政全般について語っています。また、合併特例債が5年延長されたことを受け、新庁舎建設の検討を始めることについても説明をしています。

市長が市政について語る「市政説明会」
【写真】市長が市政について語る「市政説明会」


[南アルプス市秘書課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

橋は世につれ世は橋につれ(3)

世界にひらく「開国橋」

 背後に南アルプスの山々がそびえ、前面を御勅使川や釜無川などの川に区切られる南アルプス市にとって、河川に架かる橋は、まさに地域とその外に広がる世界とを結ぶ架け橋ということができます。
 中でも今回ご紹介する「開国橋」は、その名のとおり、この地域を広く世界に開き、発展させる願いをもって架けられた橋として知られています。

現在の開国橋
【写真】現在の開国橋

 橋が初めて架けられたのは明治32年(1899)。在家塚村(現南アルプス市在家塚)の出身で、甲州財閥の一角を占めた実業家「若尾逸平」がその架橋に尽力したといわれています。当初はまだ木橋で、建築費用は当時のお金で7,752円。その約3分の1にあたる2,500円を若尾逸平が寄付し、残りを地域の有力者に呼びかけ、その寄付金や関係各村の分担金などで賄ったといわれています。

永久橋になる前の開国橋
【写真】永久橋になる前の開国橋

 橋の名称は、逸平が「我が峡の進運を敏速ならしむる」との意味をもって命名したもので、当初の字は「堺国橋」であったとも伝えられますが、いずれにしても、一代で巨財をなした逸平が、ふるさとの発展を願って尽力し、まさに峡西地域(釜無川西岸地域)を世界に開くために架けられた橋ということができます。

若尾逸平像(隆厳院)
【写真】若尾逸平像(隆厳院)

 開国橋が釜無川の東西を結ぶ現在の県道甲府南アルプス線は、江戸時代にこの道を整備させたとされる甲府城代・戸田周防守にちなみ「戸田街道」と呼ばれてきました。甲府から、小笠原を通じて駿信往還に接続する街道であり、古くから盛んだった峡西地方の行商活動の通商路としても重要なルートでしたが、他所の例にもれず、近代にいたるまで、渡し舟や仮橋での通行を余儀なくされていました。

 橋はその後、明治42年(1909)、さらに大正7年(1918)に木橋として2度架けかえられ、大正13年(1924)には、コンクリートを用いた修繕が行われたと伝えられます(注1)。そして昭和8年(1933)、4代目の橋になり、この時にコンクリート製の永久橋となりました。
 また、昭和5年(1930)以降は、山梨電気鉄道(後の山梨交通電車線/通称ボロ電)の鉄道橋が開国橋の南側に寄り添い、このルートの重要性が更に増しています。

昭和8年竣工(しゅんこう)の開国橋(西詰) 昭和8年竣工の開国橋(東詰) 釜無川を渡る「ボロ電」
【写真左】昭和8年竣工(しゅんこう)の開国橋(西詰) 右端に「ボロ電」線路が見える。
【写真中】昭和8年竣工の開国橋(東詰) 鉄道橋が歩道橋に転用されているので、昭和43年以降の写真と思われる。
【写真右】釜無川を渡る「ボロ電」(『櫛形町誌』より)

 この鉄道橋は、昭和37年(1962)に鉄道が廃線になったため、昭和43年(1968)に歩道橋に転用され、最終的には平成2年(1990)、片側2車線となって新たに完成したのが現在の開国橋です。その後、右折レーンが増設されるなどしましたが、現在も、朝夕の通勤ラッシュ時には大変な混雑がみられ、通勤通学の主要ルートとして、南アルプス市と甲府市中心部、さらにその先の広い世界を結び、地域間の交流や経済を支えています。

現在の開国橋
【写真】現在の開国橋

 なお、先代(4代目=昭和8年竣工)の開国橋の親柱(注2)は、役目を終えた後、若尾逸平ゆかりの寺院である在家塚の隆厳院の境内に移されています。

隆厳院に残る開国橋の親柱 親柱「かいこくはし」「昭和八年竣功」の文字がみえる
【写真左】隆厳院に残る開国橋の親柱
【写真右】親柱「かいこくはし」「昭和八年竣功」の文字がみえる

 このほか、隆厳院には先に掲げた逸平の銅像があるほか、逸平が開国橋を渡って運ばせた巨大なお地蔵さん(懐地蔵)などがあります。また、逸平の生家は、この隆厳院のすぐ南にあり、その屋敷跡は現在スポーツ広場となって市民に親しまれています。

隆厳院の「懐地蔵」 若尾逸平の生家跡
【写真左】隆厳院の「懐地蔵」
【写真右】若尾逸平の生家跡

注1 前回ご紹介した、鏡中条橋建設のために鏡中条村が払下げを受けたのはこのときの資材か。

注2 親柱:欄干の一番端の柱。橋名や竣工年が記されるだけでなく、個性的で多様な意匠が施され、その橋のシンボルともなる。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】