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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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2007年12月

【連載 今、南アルプスが面白い】

御勅使川扇状地の生命線 石積出(いしつみだし)

 前回ご紹介した信玄伝承の治水施設の中で、今回のふるさとメールでは「石積出」をご紹介します。

 石積出は御勅使川扇状地上流に築かれた石積みの堤防です。現存する1~5番堤のうち、1~3番堤が将棋頭とともに国の史跡に指定されています。信玄が工事を命じた伝承が伝えられていますが、戦国時代の史料に「石積出」の記述がなく、いつごろ造られたのかはわかっていません。

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【写真・左】=石積出1番堤
【写真・右】=石積出2番堤

 絵図や史料から少なくとも江戸時代には造られ、有野の集落や水田だけでなく、さらに下流の21もの村々を守る役割を果たしていました。石積出を含めた有野村の堤防が決壊すると、小笠原村や寺部村など遠く離れた人々の生活にまで御勅使川の被害が及んだのです。このため有野村は堤防補修工事の際に、下流の21ヶ村から人手を促す権利を幕府から許されていました。

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【図】=石積出のしくみ

 江戸時代が終わり、明治・大正時代に入ってもその重要性は変わりませんでした。
 駒場浄水場内にある石積出4番堤の発掘調査によって、石積出に近代のさまざまな技術が用いられていることがわかりました。

 堤防の土台には丸太を梯子状に組んで、堤防が沈まない工夫(梯子土台)が施されています。堤防の川表側には80cmもある石が積み上げられ、隙間はコンクリートで固定されています。堤防の川表側基底部には木枠を組み、その中に石を詰めて堤防の根元が水流に洗い流されるのを防ぐ施設(木工沈床)が造られていました。木工沈床のさらに川表側には、鉄線を編んで中に石を詰めた蛇籠が縦に並べられ、御勅使川の水流が堤防に直接当たるのを防いでいました。

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【図】=木工沈床

 コンクリートや鉄線蛇籠、木工沈床は明治時代以降、大正時代の技術であり、現在私たちが目にする姿は、明治・大正期の姿と考えられます。
 こうした何重にも重ねられた護岸の構造を見ると、いかに増水時の御勅使川が激流であったかが伺えます。石積出は幾百年もの間、激流から人々のくらしを守り続けた御勅使川扇状地の生命線とも言える堤防なのです。

 

【写真上段】
(左)梯子土台
(右)石積出4番堤
【写真中段】
(左)石積出4番堤 全景
(右)巨摩郡下条南割村差出絵図(年不詳 山梨県蔵) 石積出が御勅使川扇状地の村々を守る状況がわかります
【写真下段】
(左)石積出4番堤 木工沈床
(中央左)石積出4番堤 木工沈床 木材を固定するボルト
(中央右)石積出4番堤 蛇籠
(右)調査風景

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【季節の便り】

しめ飾りづくりで、お正月の準備!

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 お正月に向け、しめ飾りを毎年この時期にみんなで集まり作っている地域があり、写真を撮るかたわら一緒に参加させていただきました。簡単に出来そうに見えたのですが、初めての体験の上に、しめ縄を編む手を逆方向に編んでいくことから、なかなかうまく編めず、皆さんに助けていただきやっと完成しました。高齢者の方で、昔わらぞうりを作ったという方は、とても慣れた手つきで上手に縄をなっていました。
 自分たちが作ったしめ飾りにとても満足顔で、来年も作ろうと約束を交わしていました。上手にできなくてもやっぱり手作りには味がありました。
 皆さんも、是非一度挑戦してみてはいかがでしょうか。

 

【南アルプス市 広聴広報課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

信玄伝承の治水事業 ~暴れ川御勅使川を治める~

 前回の名取将監のエピソードでもわかるとおり、甲斐国を統一した武田信虎は気性がとても激しい人でした。それゆえ家臣団の離反を招き、長男晴信(後の信玄)によって駿河国に追放されます。父に代わり国主となった晴信は、信濃に軍を進め領地を拡大するだけでなく、国内の農業振興にも目を向け、全国的にも名高い御勅使川、釜無川の治水事業に着手したと伝えられます。今回から数回に分け、信玄が行ったと伝えられる治水事業についてお伝えしていきます。

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【写真】=明治時代の前御勅使川(現在の旧運転免許センター前)

 現在南アルプス市の北端を流れる御勅使川は、戦国時代、信玄橋から芦安地区へ向かう県道甲斐芦安線上を流れていました。野牛島(やごしま)の旧運転免許センター前を東西に走る道路にあたります。その川は地元では「前御勅使川」と呼ばれ、なまって「まえみでえ」とも言われます。「まえみでえ」は古くから暴れ川として有名で、大雨が降ると洪水を起こし、合流した釜無川を東へ押し出して甲府盆地中央部に大きな水害をもたらしました。

 こうした御勅使川の洪水に対し、江戸時代後期にまとめられた地誌「甲斐国志」(1814年)には、信玄が前御勅使川の本流を新たに北に付け替え、高岩と呼ばれる崖(甲斐市赤坂台地)の手前で釜無川と合流させる治水工事を行った以下の内容が記されています。

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【写真・左】=石積出1番堤
【写真・中】=将棋頭
【写真・右】=堀切

 『御勅使川扇状地扇頂部の駒場、有野に「石積出(いしつみだし)」と呼ばれる堤防を築いて流れを高岩のある北東へ向け、六科(むじな)に将棋の駒の形をした石積みの堤防「将棋頭」を築いて水の勢いを前御勅使川と新たな御勅使川のルート二つに分ける。さらに下流にある下条南割の岩(現在の竜岡台地)を堀り切って河道を作り、釜無川との合流地点に十六石と呼ばれる大石を置いて御勅使川の流れを弱め、高岩の手前で釜無川と合流させ、さらに竜王に信玄堤(龍王村御川除=りゅうおうむらおんかわよけ)を築いて中郡を守る。』

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【写真】=信玄堤(龍王村御川除)

 信玄の治水事業は、御勅使川の治水をこのように上流から下流まで総合的に考え、一連のシステムとして各施設を築いた点は現代においても高く評価されています。しかし、信玄堤を除いて戦国時代の史料に工事の記録が見られないため、各治水施設の造られた年代や役割は見直されつつあります。次回はひとつひとつの堤防に焦点を当て、近年明らかにされつつあるそれぞれの実像に迫ってみたいと思います。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】