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南アルプス市は、山梨日日新聞社とタイアップして「南アルプス市ふるさとメール」を発信しています。ふるさとの最新情報や観光情報、山梨日日新聞に掲載された市に関係する記事などをサイトに掲載し、さらに会員登録者にはダイジェスト版メールもお届けします。お楽しみください!

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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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2007年7月

【季節の便り】

もうすぐ梅雨明け?

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Malps070715_01_2 今年は例年に比べ雨の日が少なく梅雨らしくないと思っていたところ、台風の影響か雨の日が続いています。農家にとっては、忙しさに加え収穫にも影響が出てくることが心配される時期でもあります。甲西地区の広域農道沿いにあるブドウ畑をのぞいてみると、棚にはロザリオビアンコ、甲斐路、巨峰などいろいろな種類のぶどうの房が重なり合っています。お天気を気にしながら、農家では傘かけや粒を揃える作業が進んでいます。梅雨明けが待ち遠しいですね。

 

【南アルプス市 広聴広報課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

鎌倉時代の古刹 古長禅寺

 これまでは鎌倉幕府創建の一翼を担った市内甲斐源氏の歴史や、市内に広がる「曽我物語」の世界をお伝えしてきました。今回のふるさとメールでは、鎌倉時代の終わりから室町幕府の成立を経て、南北朝へとつながる時代に焦点をあてます。

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【写真・左】=瑞泉寺
【 〃 ・右】=瑞泉寺 庭園

 さて、山梨の小中学校の修学旅行といえば、小学校なら鎌倉、中学校では京都・奈良が定番のようです。鎌倉なら北条時宗が創建した円覚寺や花寺とも呼ばれる瑞泉寺などが代表的な見学コースのひとつでしょうか。円覚寺には14世紀の初めに鋳造された梵鐘(国宝)をはじめとして、たいへん多くの重要文化財があります。それから、京都ならば嵐山の名刹天竜寺ははずすことのできない見学スポットですね。また、約120種の苔が群生する西芳寺(通称苔寺)も、京の西のはずれにあり、事前の拝観予約が必要であるにもかかわらず、高い人気を誇る寺です。天竜寺も西芳寺も、その庭園は国特別名勝に指定され、かの世界遺産にも登録されています。

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【写真・左】=天竜寺
【 〃 ・右】=天竜寺 庭園

 南アルプス市からはほど遠い古都の話から入ってしまいましたが、これらの寺院と同じ歴史をもつ寺院が、実は市内にもあるのです。それは市内南部の鮎沢にある「古長禅寺」です。古長禅寺は、円覚寺や天竜寺、西芳寺と同様、臨済宗の僧「夢窓国師」が深く関わった寺院で、その歴史は700年を数えます。それではまず、夢窓国師とはどんな人だったのかを見ていくことにしましょう。

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【写真・左】=古長禅寺 本堂
【 〃 ・右】=古長禅寺 門前


◆夢窓国師(夢窓疎石)

 夢窓国師は鎌倉時代の健治元年(1275)伊勢国(三重県)に生まれました。ちょうど北九州に蒙古軍が押し寄せた文永の役(1274)の対応に鎌倉幕府が右往左往していた時期にあたります。まだ幼いうちに母方一族の紛争によって甲斐国に移り住み、9歳で出家しました。その後、成長とともに各地を遍歴して禅宗を学び、後に後醍醐天皇に請われて京都南禅寺に住します。翌年には鎌倉幕府執権の北条高時に招かれて鎌倉の円覚寺に住まい瑞泉寺を開創します。鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まると再び京に招かれ、西芳寺などを興しました。新政の崩壊後は、天皇の政敵となった足利尊氏・直義兄弟の帰依を受け、後醍醐天皇の冥福を祈るために創建された天竜寺の開山にもなりました。
 以上の略歴を見ておわかりのように、夢窓国師は鎌倉幕府執権北条氏、後醍醐天皇、足利尊氏など、めまぐるしく移り変わる時の最高権力者から尊敬を集めた名僧でした。「国師」というのは高僧に贈られる最高の称号ですが、夢窓国師は生前に三つ、死後に四つの国師号を天皇から贈られ、世に「七朝帝師」と呼ばれました。観応2年(1351)、77歳で入寂します。

◆夢窓国師と古長禅寺

 夢窓はたびたび甲斐国を訪れ、恵林寺や清白寺など甲斐国を代表する臨済宗の寺院を創建しました。そして正和2年(1313)、現在の南アルプス市鮎沢の地に長禅寺(※)を開いたと伝えられます。

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【写真・左】=木造夢窓国師坐像
【 〃 ・右】=古長善寺のビャクシン

 古長禅寺には夢窓国師の坐像(国重要文化財)が納められており、夢想国師の特徴であるという撫で肩が見事に表現されています。この像は、内側に書かれた墨書から延文2年(1357)9月に奈良の仏師行成によって製作されたことがわかっていて、夢窓の7回忌を機に造られたと考えられています。寺の南には夢窓国師が自ら植えたとの伝承が残る4本のビャクシン(国天然記念物)も見られます。

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【写真・左】=古長禅寺 心字池
【 〃 ・右】= 〃 

 夢窓国師は庭づくりにも優れた才能を発揮しました。瑞泉寺、天竜寺、西芳寺、恵林寺と並び古長禅寺の庭園も夢窓の作庭と伝えられています。門をくぐるとすぐ、草書体の「心」の文字をかたどった心字池が現れます。作庭は禅宗では禅の修行のひとつでした。禅の世界が庭に反映されているのです。池のほとりで静かに佇むと自分の心が水面に映し出されるようです。(池に住む鯉のさざなみで揺れる姿は、この原稿に追われ余裕のない自分の心を写したかのようでした。)

 「そうだ、京都に行こう」はJR西日本のCMキャッチコピー。見た人を京都に惹きつけます。もちろん京都や鎌倉は歴史が深く様々な魅力がありますが、市内にも知られざる歴史と多くの隠れた見所があります。メールを読んだ読者の皆様が、「そうだ、南アルプス市を歩こう」と思ってくれるのを祈りつつ、引き続き南アルプス市の歴史とともに隠れた見所を紹介していきます。


創建当時は「長禅寺」です。戦国時代、武田信玄によって甲府に新しく「長禅寺」が創建されたため、後に「古長禅寺」と呼ばれました。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【季節の便り】

青く澄んだ空と空気と小鳥のさえずりが心の癒しに!

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 梅雨の晴れ間、芦安山岳館に向かいました。途中、周りの緑と青い空、赤い橋のコントラストが鮮やかに映る風景に目を引かれました。まもなく露天風呂の看板が立っている金山沢温泉が見えてきます。すぐ脇には小さな滝が幾つも重なり合った清流があり、じっと見ているだけで心に安らぎとエネルギーを与えてくれます。目的地では車を降りた途端、小鳥や小動物?昆虫?などの様々な音色がどこからともなく響き渡り、自然の中にいることがこんなにも心地よいものだということを実感しました。

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 さくらんぼの季節が終わると次はスモモや桃の時季が訪れます。桃は、まだほとんどの木に袋がかけてあります。袋の中で大きく育っている桃は、出荷の時期をじっと待っているようにみえます。今年は天候に恵まれているので甘さは充分あるでしょう。南アルプス市の果実はこれからまだまだ続いていきます。

 

【南アルプス市 広聴広報課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

市内に広がる曽我物語の世界 その2

 前回は曽我兄弟の仇討ちを描いた「曽我物語」をご紹介しました。今回は「曽我物語」の登場人物と南アルプス市とのかかわりに迫ります。

◆悲劇のヒロイン 虎御前

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【図版】歌川広重「曽我物語図絵」

 曽我兄弟の兄・十郎の恋人として登場する虎御前は、大磯の長者の娘で、後に成長して街道一の美女と言われる遊女となりました。この虎御前、芦安地区の伝承では相模(さがみ)生まれではなく南アルプス市芦安安通(あんつう)の生まれで、縁あって大磯にある長者の養女となったと伝えられています。実際に芦安には次のような虎御前にまつわる伝承や史跡が残されています。

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(左)虎御前の鏡立石
(右)伝曽我十郎の木像と伝虎御前の木像

 大磯で十郎の訃報を聞いた虎御前は、その悲しさのあまり19歳で尼となり、兄弟の菩提をとむらうため信濃善光寺に向かいます。その旅の途中、生まれ故郷の安通村へ立ち寄り、村人から住まいを与えられ、その親切に感謝しながら追善供養を続けたといわれています。曽我氏や虎御前を祀る安通の伊豆神社近くには、虎御前が鏡を立てて化粧をしたという「虎御前の鏡立石」を今でも見ることができます。一方、芦安地区大曽利(おおぞうり)の諏訪神社には、伊豆神社から移された御神体、曽我十郎と虎御前と伝えられる2体の木像が納められています。
 虎御前が芦安出身であるかどうかは定かではありません。しかし、芦安の民宿で出されるお弁当やバレーボールのチーム名となるなど、芦安地区の人々にとって虎御前は親しみやすいヒロインです。

◆悲運の武士 御所五郎丸

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後ろから五郎を取り押さえる五郎丸
【図版】歌川芳員(よしかず)「建久四年五月廿八日富士裾野曽我兄弟夜討本望之図」

 将軍頼朝を目指す兄弟の弟・曽我五郎。誰にも止められなかった勢いの五郎を取り押さえ、頼朝を守ったのは頼朝を警護していた御所五郎丸でした。しかし、功をあげたにもかかわらず、五郎丸は五郎を捕まえる際に女装して油断させた行為が武士道に反するとして鎌倉を追放されました。そして流された地が南アルプス市野牛島(やごしま)地区と地元で伝えられています。

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(左)野牛島の観音堂とビャクシン
(右)鎌倉御所五郎丸の墓

 現在、野牛島集落に建つ観音堂には五郎丸の肌守りと言われる地蔵菩薩の木像が祀られ、お堂の傍らには五郎丸の墓が建てられています。観音堂前のビャクシンは、五郎丸が突いた杖が成長したとの言い伝えもあります。虎御前と同じように五郎丸も地元の人々から慕われ、毎年7月23日、野牛島地区の人たちによって五郎丸を供養するお祭りが開かれています。
 ちなみに「曽我物語」の一番古い形とされる真名本(まなぼん)や「吾妻鏡」(あずまかがみ)には、五郎丸が女装した記述は見当たりません。主役である曽我兄弟の活躍を際立たせるために、女装は後から加えられたエピソードなのかもしれません。

◆そしてもう一人 甲斐源氏の雄小笠原長清

 捕らえられた五郎の尋問に立ち会う幕府の重臣達の中には、櫛形地区小笠原に館をかまえた甲斐源氏小笠原長清も参列していました。仇討ちを果たした弟・五郎の姿は、長清の瞳にはどのように映ったのでしょうか。

 曽我兄弟の討ち入りは旧暦の5月28日、新暦ではちょうど今頃、6月下旬の梅雨の時期に当たります。後世の人々は、その頃に降る雨を十郎の死を悲しむ虎御前の涙と重ねて「虎が雨」と呼び、俳句の季語にも使われています。しっとりと降る「虎が雨」を感じながら、市内に広がる曽我物語の世界を訪ねてはいかがでしょうか。

 

(図版)小田原市正眼寺蔵

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】